君に触れたがる手




たとえば何かの小説のように、あるいは昔に父親と母親の間に座って観た古い映画のように、恋を題材とするものを思い浮かべる。または辞書で引いてみる。牛島にとっての感情の理解はまず言葉にされなければならない。だが、それらを思い浮かべてみたところで、辞書に書いてある言葉をなぞったところで、ーー感情を理解したところで、次に何をすればよいのかなんて、牛島にはこれっぽっちもわからない。わからないから、動きようもなかった。バレーならわかる。サーブを打って、相手がレシーブする。トスを打つ。スパイクを拾ってセッターからトスが上がる。それをこの左手が捉える。ルールがあり、役割があり、定石があり、勝利のためのプロセスがあり、そのために練習がある。まず強いチームに入らなければ、才能は活かされない。そういうことを牛島は学び、極めてきたけれど、この感情にそういったものはあるのかさえわからない。

教室の片隅。今日も彼女は友人たちにその頭を撫でられていた。気を許した人間には擦り寄っていったり、ああして頭を撫でられて満足そうな顔をしていたり、やはり猫のようだ。そして、自分が彼女に触れたときのことを思い出す。驚いて、赤くなって、困惑していた、ように思う。少なくとも、牛島から見る限り、彼女は友人たちに撫でられているときのような表情はしていなかった。埃を払うためではあったが、触れたいという想いがなかったわけじゃない。おそらく困らせた。それはわかる。けれど。彼女の頭を撫でた右手を見つめる。その手にすっぽり収まる頭の黒髪の下で、赤く染まった顔が、目に焼き付いて離れない。また、彼女に触れたい。だが、困らせたくはない。矛盾した二つの想いの中で、牛島はどう動くべきなのか、ますますわからなくなっていた。

「……天童」
「お、なーに?若利君から話しかけてくれるなんてめっずらしい」
「どうやら俺はに恋をしているらしい。どうすればいいんだ?」
「ぶっは!」

体育館の隅で休憩をとっていた天童は、牛島の言葉に飲んでいたドリンクを盛大に噴き出した。監督からの険しい視線が飛び、慌ててタオルで床を拭いながらちょっと待ってと繰り返す天童の隣に腰掛ける。一体何をそんなに驚いているのかと思わないこともないが、今それどころではない悩みを抱えている牛島にとってそれは瑣末なことだった。

「えっ…と、あの子だよね、若利君のクラスの小さい子」
「そうだ。を見ると何故か無性に触れたくなったり、動悸がする」
「ストップストップストォーップ!ちょっと待って、俺の中の若利君が崩壊してて、処理が追いつかない!」

一旦、待って。その言葉通り、牛島は天童が深呼吸を繰り返すのを横でおとなしく待っていた。以前に牛島よりも早くこの感情に気付いていた彼なら、この訳の分からない衝動をどうすればよいのか、わかっているのではないだろうか。会話を振られれば話しはするが、冷たいとか何を考えているのかわからないとか言われるような自分にも、天童は何も気にすることなく話しかける。自分にもそれくらいの社交性があれば、彼女に話しかけることも容易いのかもしれない。牛島が取り留めのないことを考えている間に、ようやく天童がひと呼吸ついて、話し出そうと口を開いた瞬間。

「休憩終わりだ!レギュラーはコートに入れ!」
「げ、マジか。若利君ごめんね!練習後に!」
「…わかった。すまない」
「でもさ、若利君にとって大事な大事な練習中に、思わず聞きたくなるくらい、その子のこと気になってんだ?」

楽しげに振り返る天童に、先日言われた言葉が蘇る。バレーに集中している、それ以外のことを考えることはできない。告白をしてくる女子たちに、牛島は一様にそう答えていた。逆に言えば、それ以外のことを考えて、バレーへの集中を乱したくなかった。だが、やはり違うのだ。考えたいとか、考えたくないとかではなく、思考の間隙を縫って彼女のことが頭の中に浮かぶ。これは最早不可抗だ。そして、それによってバレーに悪影響が出るかと言えば、そうではなかった。脚にいつもより力が入るのがわかる。跳躍する身体が、もう地に戻ることはないのではないかと思うほど軽い。滞空時間が長いのは牛島の跳躍の武器であったが、この日はなおのことそれが顕著だった。恋とは、何なのだろうか。鈍い音を立てて相手コートに刺さり、跳ね返って転がっていくボールを見ながら、牛島は左手を握り締めた。最強の白鳥沢高校で、最強と呼ばれるエーススパイカーであるという自負と誇り。それ以外は、全て余計なものだ。ずっと、そう思ってきた、はずだった。なのに、彼女のことを考えると、無限に力が溢れてくるような心地がする。この想いは、一体どうすればよいのだろう。バレーに全力を向けても発散されることなく、むしろ胸の奥で質量を増していく想いに、牛島は人生で初めて戸惑っていた。そこまで想いが募っているとも知らず、練習後、天童は牛島と二人部室に居残り、気になる心を抑えきれずに笑みを浮かべる。

「…で、若利君。さっきの話の続き教えてよ。なんでその子に恋してるって気付いたの?」
「日直で二人で仕事をしていたときに、思わず、手が出てしまったんだが」
「え!?若利君、積極的だね」

普段からスキンシップが多く、積極的な印象を受ける天童に驚かれてしまうと、自分が性急すぎたのだと思わざるを得ない。牛島はますますどうしたらいいのかわからなくなっていった。

「頭を撫でるのはやはり唐突すぎただろうか」
「あ、頭を撫でたのね。それくらいなら全然大丈夫だよー。それで?」
「それだけだ」
「えっ?それだけ?頭撫でられて、その子の反応はどうだったの?」

反応。あのときのことを、思い出す。彼女は驚いたように目をまるくして、黒髪の下に覗く耳まで、真っ赤に染まっていた。その様子を、どう伝えるべきか牛島は言葉を探す。

「……困っていたように、思う」
「どんなふうに?」
「赤くなっていた」
「へー……でも、若利君は、もう一回彼女に触れたいわけだ。ならさ、頭を撫でてもいい理由を作ればいいんだよ」

天童はニヤリと笑みを深めると、今後の方針について話し始めた。

次の日の放課後、所用で職員室に寄った牛島が体育館に向かっていると、掲示板の前で下の方だけ画鋲で留めたポスターを片手に考え込んでいる小さな姿が目に入った。彼女はその手を限界まで伸ばしながら上も留めようと粘っているが、その身長ではどうしたってポスターがたわんでしまう。職員室に寄って時間を取られた分、早く部活に行かなければいけない。だが、何も言わずに後ろを通り過ぎるなどとてもできなくて、牛島は足を止めた。

、どうした」
「あ、牛島、ちょうどいいところに。このポスター貼るの頼まれたんだけど、上の方届かなくて。椅子持って来ようか迷ってたとこだったんだ」
「上の部分を貼ればいいのか?」
「うん、お願いしていい?」

それは今度の学園祭関連のポスターで、委員会にも部活にも生徒会にも所属していない彼女が任される仕事とは思えない。小脇に何枚か抱えているのも、おそらく同じように彼女とは関わりのないポスターなのだろう。

「ありがとう、助かったよー」
「いや…」

ポスターの上部分を貼り終え、満面の笑みを浮かべる彼女に思わず手が出そうになって、牛島は慌てて左手を握りしめた。突然頭を撫でれば、また以前と同じように驚かせてしまうかもしれない。けれど、彼女に触れたい。相反する想いが胸の奥に溢れ出す。そのとき、牛島は天童の言葉を思い出した。

頭を撫でてもいい理由を作ればいいんだよ。

は、いろいろと頼まれることが多いんだな」

彼女はよく何かを頼まれては、こうして放課後や休み時間に仕事をしている。日直のときだけではなく、こんな何もない日も同様に。人が好いのもあるのだろうが、彼女は出来ないことは抱え込まずに、こうして他の人に頼れる要領の良さと人望を持ち合わせている。感情が表に出にくく、バレー部の主将でエースである牛島は部活が最優先だと、教師もクラスメイトもあまりそういう頼み事をしてこない。それはそれで都合が良くもあったが、クラスメイトには一線を引かれているようにも感じる。彼女は牛島にもそういった特別扱いをすることはない。それが心地良かった。

「そうだね、私部活にも入ってないし暇だから、皆頼みやすいんじゃないかな」
「いや、は責任感があるからだろう。任されたことはいつもちゃんとやっている」
「え、あ、いやー、牛島にそんなふうに褒められると、照れるね」

こんなポスターだって、彼女の手の届く範囲で適当に貼ってしまえばすぐに終わるだろう。けれど、牛島も手伝ったそれは皆が見やすい高さにピシリと綺麗に貼られている。いつも、頼まれたことはどんなに小さな仕事でも最後まで笑顔でやり遂げる。そういうところも、彼女を好ましいと思う理由の一つだ。本心からの言葉を告げると、照れ臭そうに笑った彼女の頭に、手を乗せた。

「ど、どしたの牛島」
「…褒めている」
「……牛島って、行動が唐突だよね」

褒めてあげて、エライエライって頭を撫でてあげるのは全然不自然じゃないと思うよ、という天童の言葉をそのまま実行したが、やはり唐突だったらしい。彼女は驚いたように目をまるくして、白い頬が赤く染まる。

「嫌だったか?」
「別に、嫌じゃないけど…」

嫌ではない。その言葉に安堵する。彼女は少し目を泳がせた後で、眉を下げたまま、赤い顔で呟いた。

「ちょっと困る」
「困る?」
「照れ臭くて、どうしたらいいのかわからなくなる」
「同じだ」
「え?」

考えていることがわからない、人の心が読めない、バレーロボット。そんなふうに言われているのを聞いたことがある。言い得て妙だと、牛島は思った。余計な感情など必要ない、バレーをするためのバレーロボット。それで結構だ。そう思っていた。けれど今、バレー以外のものにひどく心が動かされている。運動をしたわけでもないのに、心臓が大きく脈打って、顔に熱が集まっていく。彼女に触れたいけれど困らせたくもなくて、どう行動すればよいのかわからなくなる。バレーのような定石もない。こんなふうに感じたことがないから、経験に準じた行動も出来ない。けれど、それを嫌ではないと思っている。

「俺も、と同じだ。照れ臭くて、どうしたらいいのかわからない。だが、お前に触れたい」
「牛島?」
「お前はちょっとと言うが、俺はちょっとどころではない。困り果てている。を困らせたくはないが、俺とお前が同じ気持ちであれば、俺はお前に触れていいんだろうか?」

時間を取られた分、早く部活に行かなければいけない。先ほどまで間違いなくそう考えていたのに、牛島の足はその場からちっとも動かなかった。こんな問答をしている場合ではない、なんて考えは浮かばなかった。これは、部活に集中する上でも、今片付けておきたい問題だ。だから彼女の答えを聞くまでここに留まるのは、仕方ないことだ。牛島は自分自身に言い聞かせる。頬を染めていた彼女は、牛島の言葉にひどく驚いた様子を見せた後、制服から覗く肌の色が更に赤くなっていった。だが、それは牛島も同じだ。窓に映る自分の顔が、彼女と同じ色をしている。

「牛島も、顔が赤くなったり、するんだね」
「そうか。俺も初めて知った」
「……私、なんかまだよく、わかんないんだけど」
「ああ」
「心臓ばくばくいってる」
「俺もだ」

心臓が煩い。少し黙っていてくれなければ、彼女の小さくなっていく声を拾えない。そう思ってしまうほど、耳の奥で自分の鼓動が大きく響いている。

「……触れても、構わないか」

差し出した手に、彼女の小さな手が躊躇いがちに重なった。指も、爪も、掌も、自分の手よりひと回り小さい。それを壊さないように、柔らかく握る。恋がどんなものなのか、どうすることが正解なのか。まだ何もわからない。けれど今、確かに心は満たされている。時間が押した分は、居残りでフライングと百本サーブだな、と牛島は頭の片隅で考える。だから、もう少しここにいてもいい。そんな理論を脳内で展開させ、彼女が抱えたポスターを貼るのを手伝うという口実のもと、彼女の手を握ったまま歩き始めた。





(2016/6/6)