君が僕の名前を忘れてくれなかったこと




はつこい、なんてとっくに忘れたはずだった。国見は目の前の黒板に白いチョークででかでかと書かれた名前を見つめて、数回目を瞬いた。記憶の中の彼女よりも、また少し背が伸びている。顔立ちも少し大人びた。



それでも、その名前と周りまで巻き込むような明るい笑顔はひとつも変わっちゃいない。小学校では、六年間同じクラスだった。まだ男女で分かれることなく、皆で遊ぶ中心に彼女はいて。いつも隅っこで目立たないようにサボっている国見とは正反対の存在だった。けれど、ニョキニョキと伸びた身長はちょうど彼女と同じくらいで、背の順で並ぶとペアの相手はいつも一緒。誰にでも明るく分け隔てなく笑顔を振りまく女の子がいつも隣にいて、気持ちが揺らがないわけがなかった。小学生の、単純で淡い想いだったが、たぶん、すきだった。そんな想いが、記憶とともに心に蘇りそうになって、国見は慌てる。中学に入る前、彼女は東京に引っ越していった。そのときはさみしかったと、思う。引っ越しをする日を聞いて、国見にしては珍しく、最後のお別れにもクラスの何人かと行った。それっきりだ。別に手紙のやりとりがあったわけでもない。きっと彼女を見なければ、三年経った今では彼女のことなんて思い出すこともなかっただろう。彼女は名前を書いたチョークを置いて自己紹介を簡単に済ませると、一番後ろ、ずっと空いていた国見の隣の席に座るように言われた。うわ、どうしよう。クラスの中心人物だった彼女とは違い、六年間同じクラスだったといえど、国見は脇役、いや端役もいいところだ。彼女が覚えているはずがない。はじめまして、と自己紹介をすべきだろうか。いや、それもおかしい。そんなことを考えている間に、彼女はもう隣の席についていた。

「アキくん……?」

彼女の、長い睫毛がゆっくりと上下する。どくん。国見の心臓が、まるで今息を吹き返したように脈を刻む。その懐かしい呼び方をしてくる友人は、今はもういない。彼女以外には。

「やっぱりアキくんだ!久しぶり!」

彼女の嬉しそうなその声に、忘れたはずのはつこいは、あっという間にかつての鼓動を取り戻してしまった。



*****



小学校が一緒だった者も数人いて、彼女はすぐにクラスに溶け込んだ。隣の席には代わる代わる人が来る。それに飽きることなく談笑して、くるくる表情を変える彼女を眺めて、国見は溜息を吐いた。相変わらずすごいけれど、疲れないのだろうかと不思議に思う。予鈴が鳴って、人の流れがひと段落すると、彼女は国見の方へと顔を向けた。いきなり目が合って、ずっと見ていたことがバレるのではないかと内心慌ててしまう。

「アキくん、変わんないね」
「そう、かな」
「そうだよ。あ、でも背はまた伸びたね?」

頭の上に手をかざすような仕草をする。それを言うなら、彼女だってまた背が高くなっている。小学生の頃と一緒で、たぶん一生抜かれることはないだろうけど。

も変わってないよ」
「あ、昔はちゃんって呼んでたのに」

そうだ。昔はちゃんと呼んでいた。というよりも、そう呼んでいる人の方が多かった。男女の距離感ももっとずっと近くて。意識していなかったからこそなのだろうが、今となってはそれはあまりに目立ちすぎる。男子が女子の名前を呼ぶのは、親しさの象徴みたいなもので。及川レベルになると違うのかもしれないけれど、国見が女子を名前で呼べば、それはかなり目立つだろう。そんなキャラではないから。

「さすがにそれは……呼べないでしょ」
「えー、なんで?」
「もう高校生だし……」

言い訳になっていない気がするけれど、それ以外に言いようがない。小学生と高校生は違う。たった三年とちょっとしか違わないが、それでも、もう気軽に男女で絡める人間は限られている。自然と、男子と女子のグループに別れて、ほとんど会話をすることはない。彼女は納得できないような拗ねた顔をする。感情が顔に出る表情豊かなところは、本当に変わらない。

「ふーん……でも、私はアキくんって呼んでいい?」
「それは、いいけど」

少し幼いその呼び名は、小学校から中学校へ上がると同時にほとんど呼ばれなくなって、身長がぐんぐん伸びてアダ名が似合わなくなってからは完全に『国見』という苗字呼びが定着していた。子供っぽいアダ名よりは、苗字で呼ばれる方が大人に近づいたようで国見も好きだったけれど、彼女に呼ばれるその名前は悪くないと思えた。先生が入ってきて、彼女との会話は終わる。代わりに、先生の教科書を解説する声と、チョークの音が響き始めた。その板書を書き写しながら、国見は横目で彼女を伺う。初夏の教室で真っ直ぐ黒板を見つめる彼女の横顔は、ひとつの写真か絵画のように見えて。恋は盲目とはこういうことかもしれないと、国見は自分自身に冷静に突っ込んだ。
放課後、月曜日だから部活はない。真っ直ぐ帰ろうと思っていると、彼女がノートを抱えて、空いた国見の前の席に座った。それだけで、なんとなくこれからの展開に期待して、国見は帰り支度を途中でやめる。

「アキくんは、勉強得意?」
「得意って言うほどでもないけど、何かわかんないことあった?」
「数学……」
「……俺でわかるとこなら、教えるよ」

たぶん、自分よりも教えるのに向いているクラスメイトはいる。でも、彼女が頼りにしてくれるのがなんとなく誇らしくて。いつもなら面倒くさいと思ってしまうのに、こんなことを引き受けてしまう自分が、国見は信じられなかった。ひとつの机を挟んで、ノートを広げる。少しだけ丸っこい字で書かれた数式は、途中で途切れて、ぐちゃぐちゃとした線が彼女の迷走ぶりを表していた。思わず笑ってしまった国見に、彼女は拗ねて、それを宥めながら公式の説明をする。国見の説明を聞きながら、彼女は関心したように溜息を吐いた。

「こんな訳わかんない公式、よく覚えられるねぇ」
って、物覚え悪かったっけ?」
「悪いよー!ほら、小学生のときも先生に言われたこと全然覚えてなくて、よくアキくんに助けてもらったじゃん」

そういえば、そんなこともあったかもしれない。思えばよく彼女のフォローに回っていたような気がする。しかし、そうするとひとつ腑に落ちないこともあった。

「でも人の名前とかはよく覚えてるじゃん」

目が合ってすぐに、国見の名前を言い当てた。自慢ではないが、国見は中学のときに同じクラスだった女子の名前さえもうあまり覚えていない。それが小学生となったら、もうはつこいの彼女の名前くらいしか上手く思い出せなかった。彼女はシャーペンをくる、と回すと、少しだけ目を伏せて寂しそうに笑った。

「……アキくん、私が誰の名前でも覚えてると思ってる?」

どくん。ずっと、三年間、忘れていた心臓が大きく脈打つ音。これは、こんな耳の奥で響くような音だっただろうか。どうしたって期待してしまうような彼女の言葉。国見の意思とは無関係に顔に熱が集まっていく。どうか、どうか、表面上は平静を装えていますように。彼女の伏せられた睫毛から目を外して、シャーペンを握る。この公式は、どこまで説明したんだっけ。なんとか頭を働かせて思い出そうとする国見に、彼女は更に爆弾を放った。

「アキくん、私のはつこいなんだよ」
「え」
「はつこいのひとは忘れないでしょ、さすがに」
「……うん」

はつこい。思わず顔を上げた。彼女は相変わらず目を伏せていて、机に乗せられたノートをじっと見つめている。その目のふちが赤くなっているのを見て、国見は口を開いた。

「あの、さ」

さっきまで普通に喋れていたのに、喉がカラカラだ。

「……俺も、はつこいなんだ」

なんとか言い切った。国見の言葉に彼女も顔を上げる。たぶん、彼女と同じくらい、自分も顔が赤いだろう。もう、この熱をおさめる方法がわからない。

「……はじめて知った」
「うん」
「でも、はつこいは実らないって、言うでしょ」

たぶん、彼女も国見と同じだ。淡い想いを抱いたまま離れて、そして三年間を心動かすことなく過ごして、再会して。また、同じ相手に恋に落ちた。小学生のときのかくれんぼで、ふたりで同じところに隠れて身を寄せて微笑み合ったことを、何故か思い出す。はつこいだけど、これはたぶん、あのときのような幼い憧憬ではない。

「はつこいが実らないなら、これは、二度目の恋ってことで、よくない?」

なんとか絞り出した国見の答えに、彼女はあの頃より大人びた顔で笑う。

「うん、アキくんやっぱり、頭良いや」

昔は、彼女の笑顔ひとつで、こんな耳の奥で心臓の音を聴いたりなんてしなかった。だからきっと、これはあのときとは違う、恋なのだろう。





(2015/6/16)