触れなくちゃ伝わらないこと




夏のインターハイ予選が近付いている。練習は日に日に実戦を意識したものになっていき、チームのメンバーの真剣さに押されそうになりながらも、国見は金田一とともに一年生にしてレギュラーの座を勝ち取った。セッターである及川とは中学時代から同じバレー部に所属していたこともあって、岩泉ほどではないがコンビプレーは危なげない。約半数の選手が北川第一中学からやってくる青葉城西バレー部は、安定したコンビネーションが持ち味でもあった。天才セッターである及川が入部してからその傾向はますます顕著になっただろうと、国見は思っている。中学の頃から、バレーの才能もセンスもズバ抜けていた及川は、高校に入って更にその才覚が磨かれていた。サーブなんて、腕の一本くらいは持って行かれそうなものになっている。そして、さらにファンが増えていた。体育館や試合会場は、いつでも黄色い歓声が絶えない。国見はもうそんなものも慣れっこで、普段それらの声を意識することなんて、ないのだけれど。

「おっ、国見ちゃんどうしたのー!今日はなんか調子いいね?」
「……べつに、何もないですけど」

及川の手で上がったトスに飛ぶ。ブロックは二枚。ストレートはガラ空き。リベロの待機するその場所に向けて、国見の腕がしなる。強打を打ち込むと見せかけ、直前で少しだけ触れるように勢いを殺したボールは、ブロックの手を超え、飛び込んできたリベロの真ん前に落ちた。汗を拭いながら、及川の名前を呼ぶ黄色い声の集団を見やる。その隅っこで、女子生徒が一人、国見の方だけを見つめて嬉しそうに手を叩いているのを目に留め、国見はタオルに口元を埋めた。

「やっぱ国見ちゃん機嫌良くない?何かあったでしょー?及川さんに教えてよー!」
「だからなんでもないです」
「うるせーぞ及川!後輩にウザ絡みすんな!」

声だけは平静を装ったつもりだけれど、やはり見る人が見ればわかるものなのだろうか。はじめて胸に抱く感情をどう処理すればいいのかわからなくて、国見は緩んだ口元をもう一度引き結んで、コートへと戻る。世界が輝いて見える、なんて謳うベタな少女漫画みたいに、いつも使っている体育館が明るく見えてしまう。足取りが軽い。息が上がっても、まだ飛べる。自分がそんなふうになってしまうなんて、国見自身が一番信じられなかった。

『アキくん、今日、一緒に帰らない?』

彼女に声をかけられたのは、昼休みの話だ。彼女が転校してきたあの日から、なんとなく。隣同士なのもあって、なんとなく、二人で昼ご飯を食べるようになって。二人が小学校からの付き合いだと知っているクラスメイトが数人いるから、二人で一緒にいる理由も特に詮索されたりはしなかった。国見と彼女がクラスメイト以上の付き合いをしているようには見えないせいもあるのかもしれない。そう。あの告白の日から、国見は一歩も踏み出せないままでいる。

『……いい、けど、俺部活があるよ』
『アキくん、今何やってるの?』
『バレー』
『ほんとに!?』

スポーツや熱血とは縁のない生活をしているせいで、バレー部というと大抵の人間には驚かれる。母親さえ、国見がバレーを始めると聞いて、熱があるのかと額に手を当ててきたくらいだ。だが、彼女は目をキラキラさせて、国見の予想とは正反対のことを口にした。

『アキくん背が高いもんね!絶対かっこいいよ!ねぇ、練習見に行ってもいい?』

ダメ、とは言えなかった。どういう顔をしているのか、自分でもよくわかったから、国見は頷いた後、トイレとだけ言って席を立つ。冷たい水で手を洗い、おそるおそる顔を上げた。鏡に映った顔は、赤い。国見とて、一介の男子高校生だ。すきな女の子にかっこいいと言われて、胸に響かないわけがなかった。国見にとってバレーは今までも面白かったし、多少なりとも努力することを厭わないスポーツではあったけれど、誰かにかっこいいところを見せたい、と思ったのは初めてだ。金田一がサーブを打つ。拾われた。セッターからレフトへの高めのトス。ブロックに入る。いつもより少し長く溜めて、飛ぶ。ボールに国見の手が触れ、勢いが削がれた。

「ワンチ!」

国見が張り上げた声に、全員が少し目を見開いた。花巻が綺麗にボールを拾う。及川の真上、ジャストの位置。トスは弧を描いて、国見の手の上を通り過ぎた。

「おらぁ!!」

岩泉の、強烈なスパイクが決まる。試合形式の練習も終わった。あとはクールダウンして、着替えるだけだ。ちら、と入口の方へ目を向けようとすると、まだ国見の返答に納得できていないらしい及川が視界を覆うように覗き込んできた。

「ねぇ、国見ちゃん、やっぱり今日なんかあるでしょ?絶対いつもとちがう!」
「まあ確かに?国見があんなに声張るの初めて聞いたかもー」
「花巻さんまで……本当、なんでもないですから」

普段なら及川だけが部員にちょっかいをかけて騒ぎ立てたりしているのだが、今日は花巻まで興味津々といった様子で及川の隣に立っている。直接口に出さないだけで、他のメンバーも様子を伺っているのはわかった。別に、彼女の存在自体は言ってしまってもいいのだけれど、彼女が見に来ているから、かっこいいところを見せようとしていたなんて、かっこ悪くて言えやしない。国見は気怠げな姿勢を崩さずに、二人の疑問符を受け流しながら、不自然にならない程度に入口へと視線を送る。入口の隅っこで人に紛れて小さく手を振っているのを見つけて、口元がまた緩みそうになった。手を振り返せば、絶対に及川たちが不審がるだろう。部室へ戻って、昇降口でもう少し待ってて、とメールを入れる。このまま体育館の傍で待ってもらっていたら、この興味津々の先輩たちと遭遇してしまいそうだ。普段着替えるために腕を上げることさえ面倒臭がるような国見がてきぱき着替えていたら、それだけでも十分不審に違いないのだけれど、それを気にする余裕は国見にはなかった。

「……お先です」

小さく一声かけて、部室を後にする。昇降口に向かうと、彼女は靴箱に背中を預けていた。国見が近付いてくるのに気付くと、ぱっとその表情が明るくなる。

「ごめん、、お待たせ」
「アキくん!お疲れ様!」

周りまで巻き込んでしまう屈託のない笑顔に、部活の疲れもどこかへ消える。一緒に帰るのに、そういえば彼女が今どこに住んでいるのか知らなかったと思って聞けば、昔の家に戻ったのだという。それならば大体わかる。彼女が転校していった頃にも一度、訪れたことはあるから。帰り道の方向も、ほとんど同じだ。一緒に帰るって、どうするんだっけ。隣に並んで歩きながら、手とか繋いだ方がいいのかと、ぐるぐる考える。彼女は明るい声で、さっき見たバレーの練習や、国見がどれだけかっこよかったかを力説していた。それに相槌を打ちながら、揺れる彼女の左手に、国見が手を伸ばそうとしたとき。

「あー!国見ちゃん!誰その子!」
「げ」

できることなら一番見つかりたくなかった相手の声が聞こえて、思わず口が歪む。興味がないか、あっても野暮なことはしないと決めているのか、歩くペースを変えない岩泉を置き去りにして、後ろからドタバタと走ってきた及川は二人の正面に回り込んで、彼女の顔を覗き込む。

「国見ちゃんちょっと、げって何!?や、それより!君、名前なんていうの?一年?国見ちゃんの彼女?あ、俺は及川徹!」
です」
「へー、ちゃんっていうんだ。可愛いねー」

ぴり、と指先に小さな電流が走ったような感覚だった。あまりに簡単にその口から発せられた名前に、呼吸が止まる。国見の変化に気付きもしないで、及川はさらに質問を重ねる。

ちゃんは、国見ちゃんの彼女なの?」
「えっと……」

戸惑っているのが、国見にもわかった。初対面の人間に対しての警戒ではない。彼女は人見知りしないタチだ。それが国見の知り合いとわかっていれば尚更。答えあぐねているのは、この関係性がはっきりしていないから。国見はひとつ、大きく息を吸い込むと、背中に彼女を庇うように及川の前に歩み出た。

「及川さん、俺たち帰るので。お疲れ様でした。……行くよ、
「えっ」

言葉と同時に、彼女の左手を取る。半ば引っ張るように早足で歩くが、及川は追いかけては来なかった。追い抜かす際、最後に見た顔は、開いた口が塞がっていない、なんとも間抜けな顔だったけれど。

「あ、アキくん……」
「うん」
「あの、アキくん、顔」
「言わないで。わかってるから」

彼女の手を握る右手に、知らず力が入る。反対の左手で顔を覆っても、たぶん隠し切れてはいないだろう。絶対に、顔が赤い。後ろから、彼女の楽しそうな笑い声が聞こえた。

「アキくんの手、大きいね」
「……の手は、小さい」
「ふふ。アキくんの手、つめたい」
「緊張、してるから。これでも」
「うん。私も、どきどきしてる」

夏も間近だというのに、国見の手だけが温度をなくしてしまっている。彼女の手が、あたたかく感じるくらいには。一緒に帰る。名前を呼ぶ。手を繋ぐ。鼓動が耳の奥で、大きく速く、聞こえる。顔が熱い。喉が乾く。けれど全然、嫌ではない。小さな手をぎゅっと握ると、彼女も握り返してきた。それを確かめるようにして、国見は口を開く。

「あの、さ。言っていいから。彼女だって」

そう言って振り返ると、彼女は嬉しそうに笑っていた。付き合うとか、どうすればいいのか、まだよくわからないけれど。たぶん、今は、これで正解。

「……うん。今度は、ちゃんと言う。また練習見に行っていい?」
「いいけど、ときどきにして」
「えー、アキくんすごくかっこよかったのに」
「……だめ」

そんなにいつもかっこつけていたら、身がもたないから。言えない理由を、不満顔の彼女にどう納得させようか。歩調を緩めて考える。繋いだ手を揺らしながら、二人はゆっくりと歩き始めた。





(2015/11/30)