陽光で生きる教室




蝉の声がうるさい、夏休みが始まったばかりの頃。その日国見がその教室を見つけたことは、偶然がいくつも折り重なった必然であったと今では思う。ぼんやりと午後の日差しに透けるレースのカーテンの向こうに、人影が見えた気がした。夏休みの部活の帰り道だ。いつもなら、そんなもの気にすることじゃない。できるだけ早く、早急に、エアコンの効いた部屋に帰って、消耗した体力を回復することに努めるべきだ。ただ、その日はたまたま道中の日除けになる金田一が夏休みの課題という重大な忘れ物を教室に取りに行くため、職員室に寄っていてまだ帰ってきそうにもなかったし、日の光の下待っているよりは、教室の方の日陰に行った方が涼しそうだった。いくつかの要因が重なって、国見はそのレースが揺れる窓の方へと近付いた。窓が開いている。吹奏楽部などの部室が足りない部活が空き教室を借りることはたまにあるけれど、それは一年の教室に限られていて、三年の教室は補講以外では開放していなかったはずだ。そして、補講というには、見えた人影はひとつだけ。国見は窓際まで近付くと、レースの隙間から、そっと中を伺った。
そこから見えたのは、影と陽光の淡いコントラストの中、教室の後ろの方の机の間で、キャンバスを立てた一人の女子生徒だった。彼女はちょうど細かい部分でも描き込んでいるのか、国見が現れたことにも気付かずキャンバスに鉛筆を走らせている。ふ、と彼女が顔を上げた瞬間に、目が合った。

「あ、」
「え?」

どちらも目が合ったことで一瞬にして固まってしまう。三年の教室にいるからには、おそらく彼女は三年生で、自分より年上だ。教室を覗くに至った理由を説明する上手い言葉が見つからなくて、国見は押し黙った。彼女の方も、なんと声をかけるべきかわからないように見える。

「あ、の」

なんとか、精一杯引っ張り出した国見の声は、いつもより少し低く、教室に響く。

「何を、描いてるんですか」

愚問だと、声に出した瞬間に思った。わざわざ立ち入りが制限されている場所に入ってまで、絵を描いているのだから、題材は限られている。

「……教室を」

彼女は午後の教室の、レース越しの柔らかい光に溶けるような声をしていた。

「教室を、描き残しておきたいと思って」

国見がその教室を覗いた理由も、彼女は何も聞かなかった。ただ、穏やかな表情と柔らかい声が、鮮明に心に刻まれて。蝉のうるさい声も、夏の暑さも遠退いていく。

「……君は、バレー部の子?」
「え、なんで」
「及川くんと、同じジャージ着てる」

出された名前を聞いて、心臓が嫌な感じに跳ねた。そういえばここは、及川の教室だったかもしれない。何度か及川を呼びに来たことはあるけれど、金田一の後をついて行くばかりで教室の場所なんて気にしたこともなかった。ただ、及川が窓際の席だったことは覚えている。女子生徒に人気のある中学時代からの先輩を脳裏に思い描く。何をしていても目立つ人だから、同じクラスにいたら、その名前が出てくることは頷ける。むしろ、国見がここにいることがおかしいのだ。

「あの、」
「国見おまたせー!何してんだ?帰ろうぜー!」

金田一の声が、一気に国見を引き戻す。途端、夏の暑さが急激に押し寄せてきた。蝉の声が、一段とうるさく国見の聴覚を刺激する。レースの向こう、キャンバスに向かい合って微笑む彼女は相変わらず涼しげで、外側とは気温が違うようにすら見えた。結局何も言えず踵を返し、金田一と並んで校門を出る。午後の日差しはまだまだ強くて、影がなければ歩くことさえしたくない陽気だった。すぐに額に汗が滲む。回転数が随分と鈍くなった頭の中で、国見は彼女のことを思い出していた。名前すら、まだ知らないことに気付く。おそらく美術部。及川に聞けばすぐにわかるのだろうが、なんとなくそれはしたくなかった。
翌日の部活終了後、国見は理由をつけて金田一を先に帰した。先輩の中でも及川や花巻辺りなら、そういった変化を目敏く見つけて追求してくるのだろうけれど、金田一は何も疑うことなく帰って行った。彼のそういうところは、ありがたい。昨日の教室の窓際に向かう。窓はやっぱり開いていた。パタパタと小さな風に煽られるレースのカーテンの向こう、窓枠で切り取られたその空間に、キャンバスとそれに向かう彼女がいる。シャッシャッ。鉛筆を走らせる音。徐々にのめり込むようにキャンバスと近くなる距離に気付いて、彼女が顔を離し、肩の力を抜く。

「あの、」

タイミングを逃すまいと、出した声は思ったよりも大きく、静かな教室に響いた。彼女が窓の方に、まるくなった目を向ける。声をかけたのは国見なのに、思いがけず驚かせてしまって、何を言ったらいいのかわからなくなった。見つめられて、肩を強張らせた国見に、彼女は小さく微笑んだ。

「……どうしたの、国見くん」
「名前、どうして」
「昨日そう呼ばれてた」

金田一の声は大きかったから、彼女も聞こえていたのだろう。彼女はそのまま、また鉛筆を手に取った。昨日よりも遅い時間だからか、窓から差し込む日差しが昨日よりも傾いていて、より陰影の強いコントラストの中、彼女の鉛筆の音だけが教室を満たしている。どこかで感じた既視感を、国見は思い出す。幼い頃に連れて行ってもらった、水族館の水槽だ。クラゲだけの水槽を見上げたときの、青に満たされた、静かで、少し寂しげなあの空間。この陽光と彼女の音だけで満たされた静かで寂しげな教室は、あの水槽に似ている。

「せんぱい」

上下関係を示すその言葉は、面倒で嫌いだった。だが今は、とても便利だ。名前を知らなくても、彼女に呼びかけることができる。彼女は鉛筆を止め、首を傾げた。不自然なくらいに間をあけても、気に留める様子はない。国見の言葉を待っている。その空間が、心地よいと思った。

「……そっちに行っても、いいですか」

彼女は微笑んだだけだったが、それは肯定と受け取った。靴を脱いで、大きく開いた窓に足をかける。レース越し、柔らかい陽光で満たされた水槽の中に、国見は一歩踏み出した。

「そっちから来るとは思わなかったなぁ」

あれから一ヶ月ほど。国見は練習後に彼女の元を訪れている。毎日となるとどうしても訝しまれるから、三日に一度くらいの頻度だけれど。最初は窓から入ってきた国見だったが、次からは普通に入っておいで、という彼女の言葉もあって、今は普通に入ってきている。三年の教室は、一年の教室と作りは変わらないけれど、窓から見える景色は違う。どこか、違う世界に紛れ込んでしまったような違和感。

「窓から入っても別に問題ないじゃないですか」
「うん、なんか青春〜って感じだった」
「青春ですか」
「映画みたいな感じしない?」

彼女の名前は未だわからない。さして、知ろうとも思わなかった。彼女の隣の席に座って、キャンバスを眺める。鉛筆の濃淡のみを使って描かれた教室は、レースで透ける淡い光までが見えるようだった。彼女の向こうに見える窓から差し込む光が、揺れる黒髪を金色に染める。

「先輩は、どうして教室を描こうと思ったんですか」
「んー……青春を閉じ込めておきたくて」
「青春を?」

彼女はよくその言葉を使う。そうそう、と繰り返して、彼女は笑った。

「やっぱり、三年生の教室って特別じゃない?」
「そうですか?」
「うん、国見くんもあと二年したら、わかると思う」

三年の教室が特別かどうかはわからない。ただ、淡い光と彼女の音で満ちたこの教室は国見の中で特別だ。夏休みが終わりに差し掛かり、大きな絵もほとんど完成に近付いていた。

「これは、完成したら美術室とかに飾るんですか?」
「んー?どうしようかなー」
「……俺は、見たいです」

透けるレースも、黒板や机の細かい描写も、光と影のコントラストも、全てキャンバスの上に映し出されている。純粋に、完成したこの絵を見たかった。彼女が視線を向ける方向を、同じように見ていると、ずっと抱いていた疑問がぽろりと零れた。

「……先輩は、及川さんが好きなんですか?」
「どうして?」
「及川さんの席を、描いてるから」

いつだったか、及川を呼びに来た際に、彼はレースの揺れる窓際の席に座っていた。陽の光に透ける髪は、彼女と同じように金色にきらめいていて、整った容姿もあわせてまるで同じ人間ではないかのような錯覚を覚えた。同性の国見でさえそう思ったのだから、女子たちがキャーキャーと騒ぐのも仕方のないことに思えるほど。及川という男は、国見とは違う世界で生きている。彼女は強めの軟らかい鉛筆で陰影の濃淡を描き加えながら、こちらも見ずにいたずらっぽく微笑む。

「さあ、どうだろう?」

シャッ。国見にとっては文字を書くくらいの役割しかなかった鉛筆が、キャンバスに世界を描く音で教室が満たされる。窓から入る風にゆらゆらと揺らぐレースのカーテンは、まるで静かな波だ。

「新学期になったら教えてあげる」

光の水槽の中で、彼女はまた、楽しそうに笑う。ふぅん。国見は彼女の横顔を見つめたまま呟く。心臓が、少しだけ痛い。答えを知りたいけれど、知りたくない。そんな想いに駆られていることを悟られたくなくて、国見は無表情を崩さないまま、キャンバスの上だけを眺めた。なんとなく認めたくはなかったけれど、国見はこの感情をなんと呼ぶのか、もう気付いている。及川を、違う世界で生きている人間だと思った。だが、彼女とは、同じ場所に立って、同じ景色を見ていたい。それはきっと、痛いくらいに、恋だった。





(2015/8/16)