陽光で生きる教室




新学期になったら、と彼女は言った。だが実際に夏休みを終えて、国見は彼女との繋がりがあの教室たったひとつであったことを思い知る。彼女の名前さえ、まだ知らない。夏休み中、あれだけ会っていたのだから、すぐにまた会えるような、確証もない確信が国見にはあった。全校集会を終えて、キョロキョロと落ち着きなく三年の列に目をやる国見を、金田一が不思議そうな顔で見やる。及川のクラスの列に、それらしい生徒の影は見当たらなかった。体調でも崩したのだろうか。心配はしても、不安になることはなかった。新学期になったら。その答えをまだ、聞いていないのだから。一週間。粘ってはみたが、なかなか出会うことができない。その方法だけは、できることなら避けて通りたかったけれど。授業が早めに終わり、偶然一緒になった及川との部室で彼のどうでもいいような話に適当に相槌を打ちながら、国見は嫌そうな顔を隠しもせずに、彼の前に立った。
及川はいつもなら自分にカケラも興味を示さず、二人きりなら近寄ることもできるだけ避ける国見が、何か言いたげに前に立っていることに驚いて目を瞬いた。及川の視線の先で、国見は口を曲げるように言葉を発する。そんなに俺って相談とかしたくない部類かなー、と及川は内心いたく傷ついた。

「及川さんのクラスに、美術部の女の人っていますか」

何か部活に関する重大な事項でも相談されるのかと身構えていたものだから、及川はその問いに拍子抜けした。美術部の、女の子。何故国見の口からその問いが出てくるのかはわからないけれど、及川のクラスでそれに当てはまる女子生徒はひとりしかいない。

さん?でも、あの子は」
「いるんですね。だったら、いいんです」
「もういないよ」

及川がそう口にすると、今度は国見が目を瞬く番だった。

「え?」
「転校したんだよ。夏休み明け早々に言われてさ。なんで国見ちゃんがさんのこと知ってんの、って国見ちゃん!?」

本当は夏休み前に親の転勤は決まっていたらしいのだが、本人の意向でクラスには伝えられていなかった。夏休みが明けると、彼女の姿はどこにもなくて、担任から転校したことを告げられて。及川はさして仲が良かったわけでもなかったから、特に大きく感情を揺らしたりはしなかった。仲の良い子たちには夏休み中に自分で話をしていたようだった。元々彼女はおとなしめのグループに所属していて、だから、担任からの話でクラスが大騒ぎになるなんてことはなかったのだけれど。話している途中で、低燃費が信条で、部活以外では歩くことさえめんどくさそうな国見が走り出したのを見て、及川は驚いた。大きく音を立てて部室の扉を開け、あっという間に走り去っていく。置いて行かれた及川はただ目をまるくするしかなかった。

「あれは国見ちゃんの皮を被った金田一だったのかな……」

まだ誰もいない部室でその問いに答えてくれる人はおらず、国見が開けっ放しにした扉が軋む音だけが響いた。

国見は走った。美術は選択授業で美術室なんて滅多に入らない。何度か迷いそうになったが、なんとか辿り着いたその扉を開くと、数名の美術部員と顧問らしき美術の先生が国見に注目した。何故運動部がここに。そう言いたげな視線に、怯んでいる暇はない。

「あ、の、さんの、絵って……」

先ほど及川に聞いたばかりの名前の、あまりに口慣れない響き。夏休みの間、あれほど一緒にいたのに、一度も呼ぶことも、尋ねることもしなかった。彼女も名乗ることがなかった。改めて、彼女自身のことを何も知らないのだという事実が、鋭い針のように国見の心臓にチクチクと小さな傷をつける。怪訝な顔をする顧問の後ろから、女子生徒が国見の顔を覗き込んだ。

「ああ、さんが夏休みに描いてた絵じゃないですか?そっくりだもん」

彼女の言葉に、国見は疑問符を浮かべる。だが、顧問はそれを聞いて頷いた。

「言われてみれば」
「そっくり……?」

顧問の先生に手招きされるがまま、美術室の奥、歴代美術部員の作品の多くが無造作に置かれた部屋の中に足を踏み入れる。多くの作品は、置き場所を取れず、いくつも重ねられて床に置かれていた。その部屋の中で、わずかばかりの場所を確保して、イーゼルに立てかけられた何点かの絵。油絵、水彩画、どれも美しかったけれど、そのひとつの上で、国見の目は止まっていた。

「これでしょう?」

鉛筆のみを使って描かれた、教室。黒板には端に落書きのようなもの。画鋲がひとつ外れて、風に靡く掲示物。揺れるレースのカーテンと、透ける陽光。窓際の机は一際輝いていて。そこに座る、男子生徒がひとり描かれていた。国見が彼女の隣で最後に見たときにはなかった。そこに座るのは本来の席の持ち主である及川ではない。

『青春の水槽』

イーゼルに挟んだ紙に、そうタイトルが書かれていた。もう一度絵を眺めて、国見は静かに息を吐く。水槽。彼女もやはり同じような感覚を共有していたのだと知る。

「……

タイトルの下に並ぶ名前は、やはり口に馴染まない響きで。けれどその絵は確かに、国見の心を揺らした。

「ずるい」

国見の呟いた言葉は、誰に届くこともなく、ちいさな部屋の中に溶けていく。

二年が経った。国見は三年になって、偶然か必然か、あの教室を使っている。陽光に照らされた教室の中で、彼女の音はもう聴こえない。静かな水槽で、国見はひとり、息をしている。夏休みの部活後、その日国見はなんとなく思い立って、あの頃のように、教室を外側から眺めていた。窓は当たり前のように閉まっていて、人の気配もない。あの頃と変わらないのは、うるさい蝉の声だけだった。

「国見くん」

だから、暑さで頭がやられたのだと思った。後ろから聞こえた懐かしい声に振り向くと、そこには大きな袋を肩に提げた、彼女の姿があった。記憶の中の姿より、大人びている。二年は国見が思うよりもずっと大きかった。

先輩」

一度も呼びかける機会のなかった名前を呼ぶと、彼女が笑う。それだけで、心臓が大きく脈を打った。痛い。それくらいに、長いこと、感じることのなかった感覚。

「あの頃の、答え合わせをしようか」

そっと、秘密を打ち明けるみたいな声。国見は彼女の傍へと引き寄せられるように近付いた。

「私は及川くんが好きだった。といっても、淡い憧れみたいなものだけど」

そうだと、思っていた。 バレー部のジャージを見て及川の名前が一番に出てくるぐらい、自分の席から見える及川の机をあんなに美しくキャンバスに描き出すくらい、及川のことを想っているのだろうと。

「だから私の青春を、せめてキャンバスに留めておこうと思ったの」

だからこそ、わからないことがひとつある。国見はユニフォームの胸元を握り締めた。

「だけどあれに描いてあったのは、」
「うん、そう。あの日窓から入ってきたの、びっくりしたけどドキドキした。あのとき国見くんが、私の心全部、持って行っちゃったんだよ」

キャンバスに描いてあったのは、国見だった。透けるように、淡く、白黒なのに色のある世界より余程鮮やかな光を纏って、絵の中の国見はその席に座っていた。見知らぬ美術部員ですら気付くほど、あれは国見以外の何者でもなかった。彼女は肩に提げた大きな袋を大事そうに撫でる。おそらく、その中には。

「だから、キャンバスと一緒に全部、返してもらおうと思って」

ノースリーブのシャツから伸びた、彼女の白い腕を掴む。筋肉の少ない腕はやわらかく、この暑さの中でも、ひんやりと冷たい。

「嫌です」

国見の手に、力が篭った。彼女の瞳が揺れる。あのときの、レース越しの淡い陽光のような、柔らかい光がその目の中で揺れている。

「……それは、期待してもいいってこと?」

は、と笑い声が口から零れた。国見は二年前からもうずっと、あのキャンバスの水槽に閉じ込められたままでいる。

「俺の心全部持ってったくせに、今更何言ってるんですか」

真夏の午後の光が眩しい。掴んだ腕を引き寄せると、彼女の体は簡単に国見の腕の中に収まった。からっぽだった心が、ようやく彼女で満ちていく。蝉の声が、うるさい。

「……国見くんは、下の名前なんていうの」
「あきら、ですけど」
「あきらくんかぁ」

そうか。国見は心の中で呟く。彼女は国見の下の名前も、ずっと知らなかったのだ。何も知らない相手に、心を揺らされていたのは、お互い様だ。彼女の声で呼ばれる名前は、特別な響きがした。

「もういっかい、呼んで、先輩」
「……あきらくんは、ずるい」

赤くなってしまった顔を隠すように、彼女の肩に顔を埋める。そこから見えた彼女の白い首筋は、うっすらと赤く染まっていた。ずるいのも全部、お互い様です、と国見は彼女の耳元で囁いた。





(2015/8/19)