これだから恋というやつは 01




休日出勤。この満員電車の中で何人がその憂き目にあっているのか知らないけれど、電車の半分以上を埋めているのは確実に遊びに出掛けるカップルと家族連れ、そして春休みだからか学生らしい女子や男子の集団。楽しそうに会話を弾ませるグループの、そのどれにも当てはまらない人間はただ無心に目の前の携帯を見つめて、目的の駅を待つしかできない。入口に近い場所で立ったまま、会社についたらあれを片付けて、あの書類を提出して、と頭の中で算段をつけていたところで後ろの扉が開いて何人かが乗り降りをし始めた。端に避けたはいいものの、降りていく誰かの鞄がぶつかって、ヒールの足は見事にバランスを崩す。ああもうほんとに、ついてない。倒れそうになった身体をなんとか支えようとするが上手くいかず、こんな電車の中で朝から転けるなんて恥ずかしい、と半ば覚悟したとき、バランスを崩した身体がすっと引き上げられた。肩に回された大きな手。

「大丈夫?」

ヘッドホンをした背の高い男の子がそう尋ねる。先程からずっと前に立っていた子だ。どうやら、助けてくれたらしい。咄嗟に言葉が出なくて何度も頷くと、彼はひとつ笑って元の体勢に戻った。吊革にも余裕で掴まり、なんなら宙吊りの広告に頭をぶつけてしまいそうなくらい大きな背。たくましい肩幅と腕の筋肉から、何かスポーツをやっているのだろうと推察された。Tシャツにダボっとしたパーカー、緩めのジーンズ姿は大学生だろうか。この辺の大学ってどこだっけ、と考えているうちに目的の駅についていた。満員なせいで乗り降りに時間がかかって、電車が少し遅れた。休日出勤なのだから少しくらい遅れてもいい、なんて先輩たちは言うが、さすがにこの春で二年目の新人が遅れるとマズイだろう。慌てて飛び降りて、階段を駆け上がる。改札へと走っていると、途中で後ろに腕を引かれた。

「これ、落としたよ」
「えっ、あっ、定期…」

振り返った先にいたのは先程の男の子で、手の中には見覚えのあるパスケースが握られている。替えたばかりでまだほとんど使われていない定期。どこかに引っ掛けたのか、鞄につけていた紐が切れてしまっていた。彼はパスケースをこちらに渡すと、前に立ってニヤリと笑う。

「急いでるんでしょ?ついてきて」

時間的に人の多さは改札に向かうよりもホームに向かう方が多くなってきていて、人の流れに逆らう形になるのは体力を使う。けれど、彼の後ろについていくのはとても楽だった。大きな身体でぐんぐんと進んでいく男の子を対向する人々が避けているのがわかる。人の流れなどものともせずに歩く彼の背に追いすがっていると、改札まではあっという間だった。彼もここで降りるのだろうか。オフィス街であまり遊ぶところがあったようにも思えないけれど。芸術系の大学が一箇所あったような気もする。そこの生徒だろうか。お礼を言おうと改札を抜けて後ろを振り返ると、彼は改札機の向こうで手を振っていた。

「もう落とさないように気をつけて」
「えっ」

ホームに戻っていく姿に一瞬思考が追いつかなくなる。彼は、降りる駅ではないのに落とした定期を渡すために電車を降りて、ここまで連れてきてくれたのか。お礼を言わなきゃ。そう思っていたのに、考えている間に彼の背中は階段を降りて見えなくなった。こんな無償の人の優しさに触れたのは久しぶりで、彼の大きな手と背中を思い出して頬が熱くなる。

「…仕事、がんばろう」

憂鬱だった気分が晴れていく。今度会ったときには、絶対にお礼を言おう。そう心に決めて、家を出たときよりも軽い足取りで会社に向けて走り出した。



それから電車に乗るたびに彼の姿を探したが、なかなか出会うことができない。春休みの大学生で遊びに行くために電車に乗っていたのだとしたら、毎日この路線に乗るわけではないから会えないのもわかる。少しだけいつもと時間をズラして電車に乗ってみたりもしたけれどさっぱりだ。もしかしたら県外進学でこっちに帰省していただけなのかもしれない。そう考えると、会うことはもう絶望的に思えた。せめてお礼を言いたかったのに。会社帰りに携帯の画面を弄りながら俯きかけたとき、手元にふと影が落ちた。

「あ!」
「ん?あ、あんた」

耳を覆うヘッドホンを外しニヤリと笑う彼の顔に、心臓が鼓動を速める。

「もう定期落としちゃダメだよ。さん」

彼の口から、彼の声で呼ばれた名前がトクベツな響きで耳に届く。どんどん大きく聴こえる鼓動を感じながら、こんな歳になっても落ちるときはあっという間なのだと思い知った。恋というものは、まるで隠された落とし穴のように日常に大きく口を開けて待っているのだ。電車が駅について、乗り降りする人が流れる。相変わらずドアの横に陣取っていたら、彼の大きな身体が目の前に覆い被さった。盾になってくれているのか。この前人の流れで転けそうになったからだろうが、さりげなく守られている感覚にまた胸が熱くなる。彼はどこの駅で降りるのだろう。家の最寄りまではあと二駅。また偶然会えるとは限らない。

「あの、この前はどうもありがとう」
「別に大したことしてないし」
「ううん、ほんとに助かったの。あの…よかったら、お礼させてくれないかな?時間があるときでいいんだけど…れ、連絡先とか、教えてもらえれば…」

これでは逆ナンだ。だが、言わばその通りなのだから仕方がない。お礼をしたい気持ちはもちろんある。それ以上に、この関係を「ありがとう」の一言で終わらせたくないという想いが強かった。彼は少し驚いたように目を瞬くと、また笑って携帯を取り出した。

「ラインでいい?」
「うん!いいの?」
「いいよ。お礼なんでしょ?」

素早くQRコードを読み取ると、画面にはバレーボールのアイコンと『松』という一文字が表示される。なるほど、彼のやっているスポーツはバレーボールだったのか。確かに似合いそうだ。

「松…くん?」
「松川。松川一静。よろしく、さん」

まつかわいっせい。流れるような綺麗な響きの名前が耳に残る。いっせいという字は、どう書くのだろう。まだまだ彼に聞きたいことが、たくさんある。それを聞くには二駅はあっという間で、電車を降りて振り返ると彼がドアの向こうで手を振ってくれた。彼が降りる駅はどこなのだろう。手の中の携帯を握り締める。連絡先と名前。今日知り得ることができたのはそれだけだ。彼の名前の響きを思い返す。ぎゅっと胸が締め付けられるようなこの感情を味わうのは久しぶりで、仕事帰りの疲れなんかなかったように弾む足取りに、最早自分を誤魔化すことなんてできない。それは紛れもなく、恋だった。





(2016/5/20)