これだから恋というやつは 02




携帯の画面を眺めて早一時間。大丈夫だろうか。問題はないだろうか。そもそもあれは社交辞令だったらどうしよう。そんなことを考えては彼の笑顔が頭をよぎる。この機会を逃したら、連絡するのはもう絶対に無理だ。勇気が出ない。深呼吸して送信ボタンをひとつ、震える指で押した。

『昨日電車でお会いしたです。お礼をしたいので、お暇な日を教えてもらえませんか』

文章が硬くなりすぎたかもしれない。だがもう送信してしまったものはどうしようもないのだから。そう自分に言い聞かせて、既読がつくのを待った。五分後。既読の文字のすぐ後に送られてきたメッセージ。

『来週の月曜日、時間は遅くなりすぎなければいつでも』

来週の月曜日、来週の月曜日。弾む気持ちを押さえられないまま、わかったと返事をして、スケジュール帳を開く。仕事の予定しか書き込まれていなかったそれに、赤いペンでハートマークをつける。

『松川くんは、どこの駅?』
『俺はさんより、三駅先』
『じゃあ、私のとこの駅でもいいかな?近くに美味しい洋食屋さんがあるの』
『へぇ、それ知らない。行ってみたい』
『じゃあ、19時に改札で待ち合わせでもいい?』
『うん、いいよ』

いいよ、の後に猫の絵のスタンプ。可愛らしいそれに、頬が緩んだ。なんとなく彼に似た眉の猫が、マル、と腕を上げている。

『その猫、松川くんに似てる』
『でしょ。よく言われる』

あまり喋らないように見えたけれど、こうしてメッセージを送ればすぐに返してくれる。彼女とか、いるんだろうか。でも、もしいたら、こういう誘いに乗るような人には見えない。彼女、いるの。そう聞いてみたいけれど、そうしたらあまりにも彼を狙いすぎているようで気が引けた。結局待ち合わせ場所を決めて、少しだけ雑談をして、おやすみ、とスタンプを送る。枕に顔を埋めながら何度もトーク画面を眺め、溜息を吐く。安い布団に寝そべっているのに、高級羽毛布団に包まれているようなフワフワした感覚が続いている。まるで、意中の相手に教科書を借りて喜んでいた高校時代の片想いのようだ。おやすみ、と送られてきた猫のスタンプに、やっぱり少し和んだ。

月曜日。週の始まりは、いつもなら憂鬱で仕方ないはずなのにスケジュール帳を開くたびに口角が緩んでしまいそうになる。やる気に満ち溢れていたせいか、いつも終業時間ギリギリまでやっても終わらない仕事も、定時前には片付いた。服装も普段より少し綺麗めのスカート、髪もバレッタで纏めて、会社のトイレでメイク直しも済ませた。待ち合わせ時間よりかなり早く着いてしまうが、電車に飛び乗り、最寄り駅へと向かう。もうすぐ彼に会える。そう考えただけで、帰宅ラッシュの満員電車も苦じゃなかった。人の多い改札を抜けて、駅構内の、大きな看板の目の前。そこに、彼の姿を見つけ、慌てる。咄嗟に腕時計を確かめたけれど、まだ待ち合わせ時間より30分は前だ。ヘッドホンをつけたまま、手元の携帯を弄っている彼は、まだこちらには気付いていない。

「ま、松川くん?」
「っ、うお。来てたの。まだ大分早いじゃん」
「こっちのセリフだよ。いつから待ってたの?」
「さっきだよ」

驚いて目を丸くしながら、ヘッドホンを外す。何を聴いていたのだろう。気になるけれど、気になることはそれだけではなかった。一体いつからここにいたのだろう。さっき、という彼の言葉は、ほとんど信用出来ない。降りる駅でもないのに落とした定期を渡すために降りて、改札まで連れてきてくれたり、電車の中でも咄嗟に助けてくれたり。彼はいつも、気を遣わせないように優しくしてくれるから。そう考えているのが顔にも出たのか、彼は噴き出すように笑った。

「信じてないっしょ?」
「うん」
「うんって。ひでぇなぁ。今日はご飯行くんでしょ。行こう」
「……そうだね。お店、こっちなの」

結局話は逸らされてしまった。目的の洋食屋さんは、駅から少し歩いたところにある。ハンバーグプレートが絶品で、お給料日にそこに寄るのが、ちょっとした自分へのご褒美。今月はお給料日前で少し無理をするけれど、きっと美味しいと思ってもらえる自信があった。

「あのね、そこのハンバーグが、ほんとに美味しいんだ」
「へぇ。俺ハンバーグめっちゃ好き」
「そうなの?よかったー!もう、ほんとに美味しいんだよ、あっ」
「あぶない」

舞い上がりすぎた。狭い道で、後ろから走ってきた車が真横を通り過ぎる。肩を抱かれて、路肩に二人で身を寄せ合う形になった。いつの間にか、車道側を彼が歩いていたことに気付く。急に近くなった距離に、さりげない優しさに、また顔が火照る。こんなふうにときめくことなんて、本当に何年ぶりだろう。

さんって、あぶなっかしいよね」

その声は、仕方ないなぁという呆れた響きなのに、彼の顔は柔らかく笑っていた。たぶん、きっと、彼の方が年下なのに、その子供みたいな扱いも、不思議と嫌じゃない。

「ありがとう」
「いーえ。あっ、いい匂いしてきた」
「あ、うん、そこなの。お店」

くんくんと鼻を動かして、表情を緩ませる彼の姿はなんだか幼くて可愛らしい。

「なんか、普通の民家みたいな見た目だね」
「そうそう。でもちゃんとお店でさ。ほとんど地元の人くらいしか来ないんだって。隠れ家みたいでしょ?」

小さな立て看板が無ければ素通りしてしまいそうなほど、ちょっと小洒落た民家のような見た目。駐車場も小さいから、客のほとんどは近隣の住人だ。それでも地元の素材に拘った牛肉と野菜で作ったハンバーグとソースは絶品で、付け合せの季節の野菜もとても美味しい。小さなお店なのですぐに入れるか不安だったが、ちょうど二人分の席がひとつ空いていて、そこへ案内される。ハンバーグプレートを二つ頼んで待っている間、彼が待ち合わせ場所で聴いていた音楽の話をして、オススメのCDを教えてもらった。今度借りに行こうと決めて、頭の中に予定を書き込む。そうこうしているうちに、二人の前には美味しそうなハンバーグが並んでいた。

「いただきます」
「いただきます」

礼儀正しく手を合わせる彼に、慌ててこちらも手を合わせる。一人で食事をしていると、こうして食事に手を合わせるような当たり前の習慣さえ、いつの間にかなくなってしまっていたことに気付く。彼はこういう習慣も、大事にしている。そんなところも好ましかった。

「ん、美味い」
「でしょ?よかったぁ」

大きく切ったハンバーグを頬張って食べる彼はリスみたいで可愛い。こんな大きな男の子を、小動物に当てはめたら失礼だろうか。思わず緩んだ口元から、小さく笑い声が出てしまう。が、同時に彼も眉を下げて笑った。

「ふ、さんって、お人好しでしょ」

胸が高鳴る。彼の、その困ったような笑い方は、可愛すぎて不意打ちだ。ハンバーグを切るのに一生懸命なフリをして目を逸らす。

「えー?そんなことないよ。通りすがりの落し物拾ってくれて、わざわざ届けてくれて、改札まで送ってくれる松川くんの方がよっぽどお人好しだと思うけど」
「その相手にご飯ご馳走して、そんな嬉しそうな顔してくれる人とか、そうそういないって」
「そうかなぁ」

そんなに、顔に出ていただろうか。嬉しそうな顔の理由は、彼にまた会えたからで。決して、彼の思うようなお人好しな理由じゃない。何の理由もなしに優しくしてくれた彼と違って、こちらは最初から打算なのだ。それを思うと少しだけ心苦しかった。

「ごちそうさまでした。美味かった」
「よかったぁ」
「ほんとにいいの?ご馳走になっちゃって」
「いいよ!むしろ松川くんの電車賃も払いたいくらいだよ!」
「それは遠慮する。じゃあほんと、ご馳走様です」
「いいえ」

駅まで見送ると、彼は満足そうにお腹をさすって、笑顔で手を振る。これでお礼は終わってしまった。また会う理由はない。初めて出会ったときのように、偶然に頼るしかなくなった。それがかなり難しいことはわかっている。名残惜しくて、彼の後ろ姿を見つめていると、不意にその背中が振り返った。

「……さん」

改札の向こうで、名前を呼ぶ声。電車のアナウンスと周りの人たちの話し声でよく聞こえなくて、彼の声を拾うために耳をすませる。

「なぁに?」
「今日のお礼がしたいんだけど、来週映画でも行かない?」

その瞬間。彼の声を拾って大きく鳴り始めた心臓の音が、周りの音を何もかも掻き消してしまった。





(2016/8/3)