これだから恋というやつは 03




『映画、何が見たい?』

画面の中の文字列をただ追うだけで、こんなに頬が緩んでしまうものだろうか。元々映画を観るのは嫌いじゃなかったけれど、こんなに楽しみにしているのは久しぶりだ。選んだのは話題のハリウッド最新作のアクション映画。本当は恋愛ものも気になっていたけれど、なんだか余計に彼のことを意識してしまいそうだし、男の子にはきっとつまらないだろう。アクション映画の方は評判もいい。公開から日が経っているから、客も多くはいないはずだ。楽しみだね、と返された言葉に胸が高鳴る。もしかして。もしかして、彼も、自分と同じ気持ちを抱いてくれている、なんてことはないだろうか。そんな都合のいい話、と思うけれど、優しくて誠実そうな彼だから、少しくらい期待してみてもいいのかもしれない。

「松川くん!待った?」
「いや、そんな待ってないよ」
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「全然。急いで来てくれたんでしょ?」

今日ばかりは仕事を早く片付けていたというのに、定時ギリギリになって持ち込まれた事務処理に時間を取られてしまった。それを普段では想像できない速度で終わらせて、ダッシュで電車に乗り込み、彼に少し遅れると連絡を入れたのに、彼はやはり改札前で一人佇んでいた。この前も待ち合わせより早めに待っていてくれた。おそらく今日も随分と早くに来てくれていたに違いない。ヘッドホンを外して微笑む彼は、それ以上追求させてくれないけれど。

「映画楽しみだったから……」
「気になってたやつだった?」

映画の内容なんて、関係ない。たぶん、何だっていい。彼に会える時間こそが楽しみで。この映画がめちゃくちゃにつまらなくたって、本当は構わないのだから。でもそれを伝えるにはまだ早すぎる気がして、曖昧に言葉を濁す。映画館までの道のりを歩きながら、彼が鞄を漁る。

「これ、チケット。ギリギリになるかもって言ってたから買っといた」
「ありがとう!お金……」
「ストップ。この前のお礼なんだから、今日は俺に奢らせてね」

茶目っ気をたっぷり含ませて笑いかける表情に、また心臓が煩くなる。そんな顔もできたんだ。クールな印象が強いのに、笑った顔はひどく可愛い。ギャップがありすぎて心臓がもたない。こんな魅力的な子がそばにいたら、好きにならないわけがない。きっと大学でもモテるはずだ。彼の周りには、一体どんな女の子たちがいるのだろう。

「はは、不満そう」
「だって、私ばっかり喜ばせてもらってる気がする」
「んなことないって」

この前のハンバーグすげぇ美味かったし。少し照れたように頬を掻きながらそう言ってくれる横顔に、また胸がキュンとする。本当に、まるで高校生の頃の片想いみたいに。こんな感覚、ずっと忘れていたのに。昔は恋をして、告白して、上手く行ったら付き合って。そんな順序がちゃんとあったけれど。いつからか、付き合うことにトキメキは必要じゃなくなった。フィーリングが合えばそういう流れになって、じゃあ付き合うか、なんて確認があればいい方だった。付き合っているのかいないのか、よくわからない状態が続くことだって、ある。でも彼とはそんなことになるよりも、今の青いトキメキを大事にしたい。映画館に着くと、照明が少し暗くなる。シアターに入る手前にある売店から、ポップコーンのいい匂いが漂っていた。彼はポップコーン、食べるかな。映画に集中したいタイプかも。でも飲み物くらいならきっと飲むよね、という脳内会議の末、彼の方を振り返る。

「私飲み物買うよ!何がいい?」
「俺買ってくるって」
「だってそれじゃなんか悪いし……」
「んー……じゃあコーラで」
「わかった!」

彼は不服そうに唇を尖らせるが、折れない空気を感じたのか、そこだけは譲ってくれた。奢られっぱなしでは申し訳ない。もしかしたらこういうところが、男の人から見たら可愛くないのかもしれないけれど。

「はい、松川くん」
「ありがとう。んじゃ、入ろうか?」
「うん」

重い扉を開けてくれた彼に促されるようにして、更に照明の落ちたシアターの中に踏み込む。月曜日だからか、人影はまばらだ。ちょうど見やすい少し後ろの、真ん中の席。周りに観客はいない。映画館の隣の席は、こんなに近かっただろうか。腕が触れ合うような距離に、急に二人っきりになってしまったような心地がして、心臓が早くなる。それを誤魔化すように、わざと明るい声で話しかけた。

「座席、松川くんが座ると狭そうに見えるね」
「そうなんだよね。この前でかい男四人で映画行ったときとか、すげーギュウギュウな感じしたし」
「ふふ、それ見てみたかったなぁ……女の子とも、よく行ったりするの?」
「そう見える?」
「だって、松川くん、すごくモテそうだから」
「そういうふうに言ってもらえんのは、嬉しいけどね……あ、始まる」

少しだけ勇気を出して探りを入れるが、なんでもないみたいに躱されてしまう。やっぱり、こういうのは慣れているのかもしれない。ちょっとだけ落ち込んだ気分は、映画を見ているうちに薄れていった。派手なアクションの続くSF作品は大きなスクリーンで見ると一段と面白くて、最後には少し切なくなるようなシーンもあり、前評判通り楽しめるものだった。

「面白かったね!やっぱり映画館で観るならアクション系だね。スカッとする!」
「あの機体が落ちてくシーンとか臨場感あったな」
「うんうん、あと戦う女の人ってかっこいいよねー」
さんはあぶなっかしいから無理だね」
「わ、わかってるよ!いじわる!」

むくれたフリをして彼の肩を軽く叩くと、ごめんごめん、と大して悪いとも思っていなさそうな、笑いを含んだ謝罪が返ってきた。そんなやりとりさえ、なんだかむずかゆいくらいに愛しくて。しばらく映画の話をしながら、駅までの道のりを歩く。どこかに寄ったりせずにまっすぐ帰るのだろうか。駅が近付くにつれて、の胸に不安が宿った。いい雰囲気になったと思っていたけれど、それはこちらが勝手に感じていただけで、もしかしたらこれっきりで終わってしまうのかもしれない。一緒にいたいと、会いたいと思ってもらえなければ、もう彼にと会う理由はないのだ。駅の前まで来て口数の減ったに、彼は困ったような笑みを浮かべる。

「ほんとは、一緒にご飯とか食べに行きたいんだけど……もう帰らないといけないんだよね」
「そうなの?そっか……まだ月曜だもんね。あんまり遅くなってもね」
「うん、ごめんね」

まだ月曜日とはいえ、そんなに遅い時間ではない。それでももう一緒にいられないということは、やっぱり脈はないのだろう。物分かりのよい顔をしてみたものの、胸の痛みは誤魔化せそうになかった。このまま彼の顔を見つめていたら泣いてしまいそうだと、視線を足元へ向ける。だが下を向いたら、余計に涙が溢れてしまいそうだ。彼を困らせたくは、ないのに。ばいばい、楽しかったよ。それを笑って言わなくちゃ。わかっていても、言葉がなかなか出てこない。けれど、彼の口からも、別れ際の言葉は出て来なかった。

「あのさ、帰る前に言いたいことがあるんだけど」

ばいばいかな、さよならかな、またね、だったらいいな。の予想したもののどれとも違う言葉に、思わず顔を上げた。手で口を覆ったまま、少し目線を下げて話す彼の頬は、薄っすらと赤く染まっている。どくん。期待した心臓が、再び大きく脈を打った。

「女の人と、二人で映画行ったの初めてだよ。ほんとは、めちゃくちゃ緊張してた」
「え?」
さん、今、彼氏いるの」
「い、ない……けど」
「じゃあ、俺が彼氏になったら、ダメ?」

女の人と、二人で映画は初めて。慣れているわけじゃなかったのだ。驚いたけれど、それがとても嬉しくて。うまく反応できないうちに彼は言葉を続ける。ばいばいより、さよならより、またね、よりも。ずっと破壊力の高い言葉は、の心を真っ直ぐに射抜いた。こんなに心臓が早鐘を打つことは、もう二度とないんじゃないかと思うくらいに、鼓動がうるさい。

「……ダメじゃ、ない」

たったそれだけを伝えるのに、喉がカラカラになる。一度大きく目を見開いた彼が手を伸ばし、の手をしっかりと掴んだ。その大きくて無骨な手の力強さに、痛いくらい胸が高鳴る。

さんって、呼んでいい?」

乾いた喉からは咄嗟に言葉が出てこなくて、慌てて頷く。名前で呼ばれるなんて、この歳になればありふれていて、そんなことも確認してくれるところが可愛らしく思える。かっこよくて、可愛くて、男らしくて、頼りになって。いろんな側面を見つけるたび、彼に惹かれる気持ちが加速していく。

「俺のことも、名前で呼んでほしいんだけど」

彼の甘えるような声に、は爆発寸前の心臓を服の上から押さえて、握られた手に力を込めた。

「松川くんの下の名前、なんて書くの」
「一静。一番の一に、静かで、一静」
「……一静、くん」

綺麗な名前だと思った。あまりにうつくしい響きに、何故か泣きたくなった。こんな綺麗な音を、自分が口にしていいのかと躊躇ってしまうほど、彼の名前は特別なものに聞こえた。

「うん。じゃあ、これからよろしくね、さん」
「こちらこそ……よろしくお願いします、一静くん」

人の少なくなった駅前で、握手をしたまま付き合うことの確認をして。まるで仕事をしているみたいだと、急に可笑しくなって目を合わせると、彼も堪えていたらしく二人同時に噴き出した。久しぶりの恋は、思わぬ形で手のひらの中に転がり込んできた。





(2017/9/20)