紫陽花とカタツムリの恋 10
が泣きながら帰ってしまった日のことを思い出しては消えてしまいたいくらいに後悔したけれど、東京に戻ってバレーに没頭していれば記憶は徐々に薄れていく。と、思っていた。バレーに没頭しているうちはいいが、疲れて帰宅して玄関先で座り込んだ瞬間にあの日のことがフラッシュバックする。泣かせるつもりはなかった。ただ、触れたかっただけなのに。謝るべきだと、自分の中に残っている罪悪感が責め立ててくる度、携帯に残るメールアドレスを見つめるものの、何と言ったらいいのか全くわからずに時間だけが過ぎていった。そもそも、このメールアドレスをまだ彼女が使っているとは限らない。すっかり記憶に刻まれてしまったメールアドレスの文字列の、紫陽花の洋名。六月が近付いていくにつれて、彼女のことを思い出すのは道端に咲く紫陽花のせいでもある。六月。幼馴染である岩泉の結婚式はもうとっくに終わっていたが、及川にはもうひとつ宮城に帰らなければならない予定が残っている。ジューンブライドとはよく言ったもので、六月には知り合いの結婚式でスケジュール帳の休日が埋まった。その結婚式の予定のひとつを指でなぞり、及川は溜息を吐く。彼女の言っていたことを、もう認めなければならない。
晴天とはいかないまでも、この梅雨の時期に雨が降らないだけマシだ。及川は宮城の結婚式場の片隅で、先ほど花嫁と話した言葉を反芻していた。
『ずっと伝えてきてくれる子、いるんでしょう?』
彼女は高校の頃から、ずっと花巻と付き合ってきて結婚する。元々彼女は岩泉のことを好きで、それが何故花巻と付き合うことになってしまったのか、及川にはずっと疑問だった。高校時代、彼女にはそのことを随分と無遠慮に質問してしまった。何故花巻のことを好きになったのか。彼女の答えは、花巻が余裕もないくらい自分のことを好きでいてくれるから、というもので。当時の及川にはそれが理解できなかった。けれど今は、少しだけ彼女の気持ちと、花巻の気持ちがわかる。好きだと言われて気になり始めて、のことを好きだと自覚したら、今度は余裕がなくなった。今でも及川が努力しているところを見てくれていることを知ったら嬉しくて、近くにいたら触れたくて。今までは女の子と付き合って振られても気にしたことなんてなかったけれど、彼女に振られることは、ひどく怖い。
『わからないんだ』
及川の口から零れたのは、情けないくらいに弱気な声だった。
『ずっと憧れなんだって言われた。憧れと好きは違うものでしょ。それに……キスして泣かれた』
こんなことを言うつもりはなかったのに。ただ、結婚おめでとうと伝えるつもりが、いつの間にか言葉が口を突いて出る。幸せそうな彼女とは正反対の、こんな愚痴みたいな話も彼女は呆れずに聞いてくれる。岩泉に話したときには、もういい加減諦めろと諭された。キスされて泣かれて逃げ帰られたなら、もう脈はない。尤もだと、及川も思った。なのに未だ、のことを忘れられないのだから嫌になる。
『及川くん、キスする前に気持ち伝えてないでしょ』
『でも……怖いよ。断られたら』
『そんなの、誰だって怖いよ』
彼女が真っ直ぐ目を見て放ってくる言葉は、深く及川に突き刺さる。誰だって怖い。好きな相手に断られるのは。初めて告白してきたときのも、そうだったのだろうか。目の前の彼女が岩泉に好意を伝えられなかったのもそれが理由で、けれど、お互いに少しずつ勇気を出した結果、彼女は花巻と付き合うことになったのだろう。初めて告白してくれたときはが勇気を振り絞ってくれたのだから、今度は自分が勇気を出す番だと、及川自身も思っていたのに。結局他の男に告白されているのを見て、逃げ出した。そして、今でも断られることを恐れて、何もできないままでいる。
『それに、及川くんのこと、好きでも嫌いでもなかったら、キスされて泣いたりしないと思う』
『……嫌いだったら?』
『私なら殴るけど』
『心折れそう』
殴られまではしていないが、彼女の言葉は及川にとって希望的観測に過ぎない。が実際どう思っているかなんて、誰にもわからないのだ。
『ねぇ、及川くん、私ね、貴大の情けないところがすきなの』
『君も変わってるよね』
『そうじゃなくて。ヤキモチ焼いたり、すぐ落ち込んだり、逆に舞い上がったりしてるところが、可愛くて。私のことすきなんだって、実感できるの。あ、こんなこと言ったの、貴大に内緒だからね』
言われなくたって、花巻にこんなことは話せない。話したら話したで、自分の情けない話もバラさなければならなくなる。高校時代、散々彼らを揶揄ってきた手前、こんな話をして自分に返ってこないはずがない。彼女は及川のことを無断で花巻や他の知り合いに話す人間ではない。そういうところを含めて、彼女はほんの少しだけ、岩泉に似ていると及川は思う。
『及川くんって、彼女の前だとかっこつけるでしょ。だから、今もそうだけど、そうやってうじうじグズグズするくらい情けなく彼女をすきなところを見せたらいいじゃない』
『……君ってそんな性格だったっけ?』
こんなふうに、及川に遠慮なく言葉をぶつけて背中を押してくれるところなんかが、特に。友人とは言え、花嫁の控え室に男一人が長いこといたらまずいだろう。笑う彼女の控え室から出て、花巻の控え室へ向かい、ひと通り彼に祝福を述べてひやかした後、及川は式場の片隅で時間を潰していた。野球などに比べればそうでもないが、バレーもプロ選手となればそこそこの知名度があり、大勢の集まるところにいると、写真だの握手だのサインだのと頼まれるのが面倒で逃げてきた。それにしても、情けないところを見せろ、と言われても。もう手遅れなんじゃないだろうか。あのキスのことを謝るタイミングさえ、完全に逸している。式場の片隅には季節の花が何かしら咲くようになっているのか、紫陽花が咲き乱れていた。六月は嫌いだ。どうしたって、のことを思い出させる。式が始まるから移動するぞ、という岩泉の声に腰を上げて、及川はその場を後にした。
式も披露宴も、滞りなく進んでいく。二人の出会いがナレーションされるのを聞いて、新郎様の猛アタックで始まった交際、というのに笑ってしまった。花巻ってそんな感じだったか、と岩泉が不思議そうに首を傾げ、岩泉ってやっぱりほんとばかだよな、と松川が呆れたように口にする。確かに花嫁に片想いしていた相手がいたなんて言うわけにもいかないのだろうけれど。それに花巻が彼女にベタ惚れだったことに間違いはない。岩泉のスーツの似合わなさを相変わらずだと笑ったり、松川が彼女とヨリを戻した話などを聞いているうちに、披露宴もどんどん進んでいく。花巻も最初は緊張からか花嫁をエスコートする動きがぎこちなかったが、二回目のお色直しから帰ってくる頃にはいつものような笑顔を取り戻していた。だが、今度は花嫁の方がどこか落ち着かない表情をしている。何かあったのだろうか。及川が疑問に思っていると、彼女と視線が合った。何かを言いたげな目にどうしたものかと迷ったが、ちょうど写真タイムに入ったこともあって、テーブルにいるメンバーと一緒に高砂へ移動する。皆がそれぞれ花巻へ声をかけている間に、彼女が及川の袖を掴んだ。
「及川くん。あの子、今日お見合いなんだって」
「え?」
彼女の言葉を一瞬で理解することができなくて、及川は目を瞬いた。
「今日来てる私の友達に、及川くんの好きな子と仲の良い子もいるの。私も早く行動しないと置いて行かれちゃうって、今言ってた。グズグズしてる暇、ないよ」
貴大には、及川くんの好きな子が今日お見合いしてるみたいとは伝えたから、と彼女は言った。それはつまり、ここを抜けて、そちらに行けということなのだろう。お見合い。が、及川の見も知らぬ男のものになってしまうかもしれない。たとえがその男と付き合わなくても、もうとっくに手遅れになっている可能性は高いけれど、今行かなければ一生後悔する。それだけは、確かだ。
「……ねぇ、お見合いしてる場所、わかる?」
彼女の口にした場所をしっかりと頭に記憶した頃には、そこにいる面子は全員及川に注目していた。特に今回の主役である花巻には申し訳ないと思っていると、早く行け、とでも言うように笑って手を振られた。及川は眼前で手を合わせて頭を下げる。
「ごめん、マッキー!ほんとごめん!」
「……しゃあねぇな。その代わり、結果報告とラーメンおごり!」
「俺もー」
「俺のもな」
「じゃあ私も」
「なんでまっつんと岩ちゃんも入ってんの!もー!……了解!振られたら慰めてね!」
いつまでも変わらない彼らなりの励ましに背中を押されるように、及川は会場を出て走った。タクシーを拾わなければ。少し走った後、大通りでタクシーに乗り込み、行き先を告げてネクタイを緩めた。
「すみません、できるだけ急ぎでお願いできますか」
「あー、お客さん、あっちの方いつも混んでるから時間かかるかもしれませんよ」
「じゃあ、走れるところまでお願いします。詰まったところで降ろしてください」
運転手の言うように、駅が近付いてくるにつれて車が多くなっていく。徐々に渋滞で動かなくなっていく車の列に、ここまで来たら走った方が早いと及川はタクシーを降りた。お見合いの場所は駅前にある、割と格式の高いホテルだ。その手の会場に使われることも多いのだろう。何組か、ロビーにもお見合いらしき人たちが見える。その中に彼女を探すが見当たらない。もしかして、レストランか何かに入られただろうか。それとももう見合いも終わって帰ってしまったのかもしれない。お待ち合わせですか、と声をかけてくるホテルの従業員をかわしながら及川がもう一度ロビーを見渡すと、観葉植物の奥に、背を向けた女性がひとりで座っているのに気が付いた。その綺麗な黒髪には覚えがある。
「っ、さん!」
「え?及川くん?!」
は、突然現れた及川にひどく驚いているようだった。当然の反応だ。しかし今は彼女のそんな反応すら気にかけている余裕はなかった。走ってきたせいで髪も乱れているし、スーツの下の新しく卸したばかりのシャツは汗で湿って気持ち悪い。まだ息も整っていない。
「お、お見合いっ、お見合いは!?」
「えっ、え!?なんで及川くんが知ってるの!?」
「どうなったの!?」
「……それ、及川くんに関係あるの?」
普段の彼女よりも、温度のない静かな声だった。ぐ、と言葉に詰まりそうになる。貴方には関係ない。そう言われている。これ以上関わってくれるなと、壁を作られた気がした。だが、もう、そんなものに心を痛めている暇はないのだ。今、伝えなければ一生後悔するから。
「あるよ!俺の方がそんな男よりもずっと先に、さんのことすきだったんだから!」
「え?」
彼女が大きく目を見開くより先に、ロビーにいる他の客から冷やかしや歓声が上がった。あれ、及川徹じゃないか。そんな声も聞こえる。一拍の後、頬だけと言わず、頭から首元まで赤くなったが慌てて席を立つ。
「あ、あの、及川くん、ここ目立つから……庭に、行こ?」
飲んでいたらしいコーヒーはまだカップの半分以上残っていたが、それを置いて歩き出す。昔と変わらず注目を浴びるのは苦手なようだ。及川としても、彼女とゆっくり話せた方が有難い。俯いてホテルの庭に続く扉を開けた彼女は、そこでようやく顔を上げた。ライトアップが始まった薄暗がりの庭に、紫陽花が映える。よく手入れの行き届いたその庭のグラデーションの紫陽花は、確かに見ものだった。
「紫陽花、綺麗だね」
「さん」
緊張を誤魔化すように笑ってみせる彼女の腕を掴まえる。あの、再会した夜の再現のようで、の身体が強張ったのがわかった。今度こそ。ちゃんと全て、伝えなければならない。
「俺、ずっと、告白されて付き合っては振られてた。イメージと違うとか、全然会えないから付き合ってる意味ないとか……いろいろ言われて。だから俺のことなんて最初から大して好きじゃないんだろうって、女の子からの告白も、信じてなかった」
どうせ最後は振られるなら、最初から、彼女たちの好意を信じない方が楽だった。裏切られたなんて思って傷付かずに済む。遊びだと思って付き合えば、それなりに楽しい時間を過ごせたし、別れたとしても後腐れはなかった。別れた悲しみも、思い出すほど心が動いた記憶もない。何もない。その場凌ぎみたいに、貰った薄っぺらい好意を繋いでいた。そのうちに感覚も麻痺していって。人を好きになるということ自体がわからなくなっていく。を好きだと気付くのが遅すぎたんじゃない、きっと、彼女を好きだと認めたくなかったのだ。いつか自分が傷付くかもしれない。それが怖かった。
「でもさんは、付き合ってもない俺のこと、ずっと好きでいてくれて、努力してるとこが好きだって、言ってくれて。他の子と付き合っても、さんのことばっかり気になった。俺の言葉なんか真に受けて、変わろうと努力してるさんが可愛かった。あのときの、キスだって」
腕を握る手に力を籠める。今、おそらく、泣きそうな顔をしている。かっこ悪い。見せたくない。でも、彼女から目を逸らしては、いけない。
「酔った勢いじゃなかった。ずっと、前から。さんに、キスしたかったから、したんだ」
大学の、あの頃から、ずっと。は何も言わなかった。静かに及川を見つめている。まるで、その言葉の真意を推しはかるように。そして、及川に握られていない方の手を、そっと上着のポケットに入れた。
「及川くん、これ、覚えてる?」
そこから出てきたのは、見覚えのあるシルバーの。
「……あのときの、口紅」
メイクを変えたいがどうしたらいいのかわからないと悩んでいたに、見かねた及川が選んだものだ。への恋に気付いた、あの日のもの。忘れるはずがなかった。はそれを、まるでとても大事なものを扱うように、ギュッと握り締める。
「これ、私に勇気と自信をくれるお守りなの……お見合いは、断った。やっぱり、及川くんのこと、忘れられなかった……っ」
人のいない静かな庭で、の言葉だけが及川の耳に届いた。その頬を、あの日と同じように、いくつもの涙が滑り落ちる。それでもまだ水を湛えて、潤む目元に手を伸ばした。涙を拭う及川の手を、は避けない。
「ほんとに、私のこと、すきになってくれるの?」
心臓が、大きくひとつ鳴った。けれど、嫌な感じはしない。泣かせたことには変わりないのに、及川の胸に、あの刺すような痛みはなくなっていて。代わりに、指先に触れた涙の温度によく似たあたたかさが、心を満たす。
「……もうとっくに、すきだよ」
及川の口から零れた声は、自分でも驚くほど柔らかい。彼女はその言葉に俯いてしまった。ぱた、ぱた、と。透明な雫が彼女の足元に落ちていく。泣いている。きっと、たぶん、悲しい涙ではないけれど。もう、泣かせたくないんだけどな。彼女の腕を握っていた手を緩め、その腕の先へと下ろしていく。及川と比べれば小さな手のひらを包み、その指に自分の指を絡めた。ぎゅ、と優しく力を籠めてみると、彼女が顔を上げる。
「紫陽花」
「え?」
「そういえば、最初に告白されたときも、咲いてたなって、思い出して」
灯りに照らされたグラデーションの紫陽花に視線を向けながらそう言うと、彼女も少しだけ笑って涙を拭った。
「そうだね。私、及川くんって紫陽花みたいだと思ってた……綺麗だけど、綺麗すぎて、少し近寄りがたい気がしてた」
過去形とはいえ、近寄りがたいと思われていたことにはちょっと傷付く。それに、彼女の中では随分と美化されているけれど、及川自身そんなに綺麗な人間ではない。が、彼女にそう見えているのなら。
「じゃあ、さんはコイツかな」
及川はその紫陽花の葉の上で動くカタツムリを指差した。
「ゆっくりでも、ちゃんと進んでいくところが似てる」
「褒めてるの?」
「うん、可愛いってね」
近寄りがたいと放っておかないで、ずっと及川を見てくれていた。ゆっくり、ちょっとずつ、歩み寄ってきて。その一生懸命な姿を、可愛いと思う。彼女はまた俯いてしまったが、黒髪の間から覗く耳まで赤くなっている。今度はそれが照れ隠しなのだとわかったら、ちょっとだけ意地悪したくなってしまった。
「ねぇ、紫陽花って、俺に似てるんだよね?」
「え?うん」
「さんのメアドってさ」
「っ、ちが、あれは、そのっ」
紫陽花が好きで、とか、何にしようか思いつかなくて、とか。必死に言い募っていたけれど、その困ったように眉を下げた真っ赤な顔では、何も隠せやしないだろう。まだ何も言ってはいないのに、大慌てで及川の言葉の先を否定しようとするのが可愛くて。及川は堪えきれずに噴き出した。違うんだよ、と未だ言葉を重ねる彼女の手を引いて。これ以上彼女が否定の言葉を紡げないように、そのピンクの唇を、優しく塞ぐ。ひと気のない庭の薄暗がりの中、紫陽花とカタツムリだけが静かに二人を見守っていた。
(2016/5/6)