紫陽花とカタツムリの恋 09
セットした目覚ましが鳴るより先に、目が覚めた。明けきらない早朝。窓の向こうはまだ暗い。スーツのままベッドに横になってしまったらしい。このスーツはクリーニングに出さなければ。とりあえず洗面台に向かい、蛇口を捻る。冷たい水で顔を洗うと、少しだけスッキリした。昨日の出来事がまるで夢だったかのように思える。いや、あれは零時を過ぎた時間であったから、まだ、ほんの数時間前だ。
及川徹を初めて見たのは、高校二年生。人生で初めて、親に反抗した日だった。毎日決められた勉強時間、遊ぶような時間もほとんどなく、親に言われたことを守るだけの毎日。それでも、親や教師、友人たちから、すごいねと褒められている間は勉強だって楽しかった。だが、一位を取ることも百点を取ることも徐々に当然のことになっていき、何のために勉強しているのかわからなくなっていく。高校二年になって順位が落ちて、親に怒鳴られた瞬間何かが折れた。一体何のために頑張っているのだろう。褒められるためだろうか。そう考えたとき、自分がやりたいことも、なりたいものもない空っぽの人間だと気がついた。やる気も何もかもなくなって、勉強をするように決められている時間、家を出た。あてもなく、散歩気分で歩いていく。携帯がずっと鳴っていたけれど、無視した。歩いている途中、ワァッという大きな歓声が耳に届いた。振り向くと、大きな体育館があり、歓声はそこから聞こえているようだ。ほんの興味本位で、そこへと足を向けた。背の高い人が多い。バレーの大会だと書いてある。
『及川くーん!』
『及川さん、頑張ってー!』
二階の応援席、最前列は女の子たちが並んでいて、一人の名前を呼んでいた。及川。一体誰のことだろう。その疑問は、たったひとつのプレーですぐに解消された。コントロール抜群のジャンプサーブ。身体全てをバネにして、腕一本に力を集約した鋭い一閃が相手コートに突き刺さる。途端、大きくなる歓声と黄色い悲鳴。相手コートの選手に向けて不敵な笑みを浮かべ、彼はもう一度ボールを放った。空いている席に座ることも忘れて、立ち尽くした。あの日の感動を、今も覚えている。及川は天才だ、あいつは才能が違うという声が、ちらほらと聞こえる。天才、才能。確かに、神様が依怙贔屓して二物も三物も与えてもおかしくないような端正な顔立ちをしているけれど。体育でバレーをやったときのことを思い出す。サーブでネットを越えることも難しくて、相手コートに入ればいい方で、コースなんて狙えたものじゃなかった。それを、あんな正確にラインギリギリを狙って、あの威力で打つなんて。チームメイトの力を最大限活かすトスも、フェイントを仕掛けるタイミングも。全ての動きに無駄がなくて、流れるようなフォームに溜息が溢れる。誰かがスポーツをしている姿を美しいと思ったのは、それが初めてだった。一朝一夕で身につけられるものでないことは、その姿を見ればわかる。この試合に臨むまでに、物凄い努力をしてきた人なのだろう。だが、相手チームはその上だった。一人の選手が軸となり、ブロックも関係なしに吹き飛ばす強烈なスパイク。戦術も戦略も、何もかも無意味に思えるような強さだった。結局、最後、試合は及川と呼ばれていた選手のいるチームが負けた。あんなどうしようもない強さで力任せに叩きのめされてしまったら、自分であれば心が折れる。まして、物凄い努力をしているであろう人なら、尚更。けれど、及川は唇を噛み締め、相手チームを見据えていた。下を向くことも、涙や汗を拭うこともせず、真っ直ぐに前を向いて。次は負けない。勝ってみせる。彼の目は、そう言っていた。
ああ、あの人はバレーが好きで、努力を惜しまなくて、悔しいという気持ちも糧に変えて、更なる努力をできる人なんだ。眩しい、と思った。コートの中で、彼だけが輝いて見えた。鼓動が、いつもより速い。胸に当てた手のひらに、心臓が大きく脈打っているのが伝わる。仲間と談笑しながら、時折客席の女の子たちへと笑って手を振る彼の、下の名前も性格も学年も、何も知らないのに。目が離せない。恋はするものではなく、落ちるもの。いつか読んだ小説の一節に、そんな言葉が書いてあった。そのときには、その言葉を感覚として理解することはできなかったけれど。本当に一瞬だ。言葉を交わすことも、視線が合うこともなかった。彼はこちらの存在すら知らないだろう。そんな状況でも。恋に落ちるのは、一瞬だった。
家に帰り、親に気持ちの入らない謝罪をして。また勉強を頑張った。やりたいことも、なりたいものも、まだ見つからない。けれど、彼がバレーをしている姿をもっと近くで見たいと思った。あれほど女子から歓声を貰っていた人だ。しかもその子たちは、お洒落のひとつも知らない自分よりもずっとずっと美人で可愛い子ばかりだった。きっと自分では相手にもされないだろう。この恋が叶うことはない。だが、想うことは自由だ。バレーをしている姿を少しでも観ることができたなら、それで充分。青城の及川徹が推薦を受けたという噂を聞いて、その大学へ志望を出した。親や教師には反対されたけれど、それでも偏差値の高いところには違いない。最後は渋々許可してくれた。今まで頑張ってきた努力が報われて、学校からの推薦で大学の合格を勝ち取った。大学の敷地内にある体育館。強豪らしいバレー部はほぼ毎日練習をしていて。その中でも、やはり彼は誰よりも遅くまで残っていた。他の人たちが流してしまうような練習内容も、ひとつひとつ丁寧に取り組んでいる。あの美しさは、その努力の結晶だ。そんなところを見るたびに、胸を締め付けられるような想いは質量を増すばかりだった。
そして、大学二年の六月。ひとりで抱え込んでいられなくて、受け入れられなくても構わないから、気持ちを伝えたいと思うほどに恋は育っていた。告白をしても予想通り受け入れられることはなかったが、彼は笑わなかった。彼が今まで付き合っていた女の子たちのように可愛らしい容姿ではないことを、彼のチームメイトにも笑われているのはわかっていた。けれど、彼はその話の輪にも入らない。きっと、優しい人なのだ。だから彼は、人に好かれるのだろう。少しずつ彼と話すことが増えて。ノートを貸したり、勉強を教えたり、彼に頼られることが嬉しかった。勉強が得意でよかったと、そのときは親に感謝したものだ。
眼鏡からコンタクトに変えたのも、選ぶ服が変わったのも、彼の言葉の影響だった。頑張ったって、元から可愛い人には敵わない。けれど、たとえお世辞でも、可愛いと彼の口から言われたら、その言葉は特別になった。付き合ってみないか、と彼から言われたときも、夢のようだった。だが、夢はすぐに醒める。おそらく彼は、今まで周りにいなかったタイプの自分が珍しいだけなのだと、すぐにわかった。付き合ってみて、合わなければきっとすぐに振られてしまうだろう。彼は交際が長く続かないことでも有名だった。この恋は叶うはずないと思っていたけれど、彼と過ごす時間が増えるうちに、欲が出た。好きになってもらいたい。それがとても難しいことはわかっている。でも、たとえ好きになってもらえなくても。彼に振られることがなければ、この恋が終わることもない。そのうちに、彼は可愛い女の子と付き合い始めてしまい、順調に交際しているようだったから、あのとき雰囲気にのまれて頷かなくてよかったと思ったものだった。きっとそうしていたら、あの女の子と付き合う頃には別れを告げられていただろうから。よかった、これでよかったのだ。この恋を、終わらせずに済んだ。そう思っても、時折涙が溢れる。こんなに苦しくて悲しいなら、いっそ終わらせてしまった方がいいのではないか。何度も考えたけれど、結局彼のことを忘れることなんてできなかった。卒業して、何年経っても。
休日出勤の帰り、随分と遅い時間だった。おそらく飲み会の帰りか何かで酔っ払っているのだろうが、電信柱で蹲る人を見つけてしまうと素通りすることはできなかった。周りにその人の知り合いらしき人もいない。とても具合が悪そうで、一人で放ってはおけなかった。自分も新入社員の頃に、二日酔いに悩まされるほど上司に飲まされたことがあったから。その人が、まさか彼だとは思わなかったけれど。休日出勤の疲れが幻覚を見せたのかと考えた。会社の机に置いていた月刊バレーボールのインタビュー記事を合間に読んで、仕事頑張ろうとやる気を高めていたせいで。だって彼はほとんど東京にいて、こんなところで会う可能性なんてないはずだ。そう思ったけれど、彼は幻覚でもなんでもなく、やはり及川徹以外の何者でもなくて。肩を貸してくれと頼まれたときには、少し躊躇った。久しぶりに会った彼は一段とかっこよくなっていて、少しでも近付けばまた、あの頃の想いが育ってしまいそうで。肩に彼の腕が触れて、身体の片側に彼の体温を感じるだけで心臓が痛いくらいに脈を打った。あのとき、断っていればよかったのに。彼の部屋まで肩を貸し、蹲った彼に水を渡そうとしたとき、不意に腕を掴まれた。
『さん、大学の四年のとき、告白されてたでしょ。そいつとは、付き合ったの?』
『え?……うん、付き合ったよ。ほら、及川くんも彼女いたし、私もそろそろ諦めないと、って思ってたから』
嘘だ。付き合ったことなんて、ない。四年生のとき、告白してきてくれたのは、とても真面目そうな人だった。男の人に、好きだと言われたのはそれが初めてで、嬉しくなかったと言えば嘘になる。けれど、だからこそ、彼を忘れるために利用するようなことはできなかった。彼はそのときミスコンで優勝しまうような可愛い女の子と付き合っていて、遠目から見ても二人が並んでいる姿はお似合いだった。眼鏡をコンタクトに変えて、雑誌を買って服のコーディネートを勉強して、メイクの仕方も教えてもらって。昔の自分とはまるで違うくらいには変われたけれど、それでも元から容姿の恵まれた彼の横には似合うはずもない。好きになってもらえるようになるまで頑張る、なんて、そもそも無理な話だ。それなのに、諦めることもできないのだから、本当に嫌になる。彼がテレビに出るようになって、美人の女子アナウンサーや可愛いアイドルと共演するたび、遠い人だと思う。きっと今も可愛い彼女がいるのだろう。だからもう、揶揄わないでほしい。構わないでほしい。これ以上、好きにさせないでほしい。
『じゃあ、これは、今日のお礼』
腕を掴まれて、近付いてきた端正な顔に目眩がした。触れられた唇が熱を持つ。お礼。彼は酔っていたから、そのせいもあるのだろう。それに、普通はきっと、彼がキスをしてくれたら喜ぶものなのだ。憧れて、好きで、かっこよくて、有名な及川徹にキスしてもらった。そう思って、いい思い出にしてしまえばいいのだろう。だが、できなかった。彼の胸を押して、離れる。その瞬間、彼との間に、いくつも雫が落ちていくのを見た。止まらない。溢れる。もしかしたら彼にとってはこんなもの、ファンサービスの一環で、いつものことなのかもしれないけれど。たった一度、ほんの僅か唇が触れただけで、忘れようと閉じ込めた想いが蓋を抉じ開けて育っていく。遠い人だと言いながら、まだ、こんなにすきなんじゃないか。突きつけられる事実に耐えられなくて、彼の家を出て走った。どうやって自分のマンションに辿り着いたのかあまり覚えていないが、普段運動をしないせいで足が痛い。顔を洗って鏡を見ると、目の腫れた不細工な女が映っていた。
「ひどい顔」
泣き腫らした目から、まだ足りないとでも言うように涙が溢れてくる。今日は仕事もない休日だ。泣きたいだけ泣いたら、気持ちも洗い流されてなくなってくれないだろうか。
「結局私は、好きになってもらえなかったんだから」
落とすことを忘れたピンクの口紅が、かすかに残っている。そういえばメイクも落とさないままだった。残業中にメイク直しもできなかった上に、泣いたせいもあって、ほとんど落ちてしまっているようなものだけれど。メイクを落として、もう一度顔を洗って。化粧ポーチに入っている口紅のケースとリップブラシを手に取る。
「いい加減、及川くんに頼らなくてもいいように、しなくちゃね」
それは、いつか及川に選んでもらったものだった。もう口紅の中身はなくなってしまっているのだけれど、なんとなく捨てることができなくて、そのままポーチに入れてある。それから買う口紅も、その色によく似たものばかりだ。彼に貰った『可愛い』の言葉は、お世辞だとしても嬉しくて、ピンクの口紅はまるで魔法みたいに自分に自信をくれた。だが、それに頼ってばかりでは、どうしたって彼のことを忘れられない。
「ばいばい、及川くん」
ゴミ箱に落ちていくその口紅と一緒に、自分の恋心も捨ててしまえれば楽なのに。
(2016/5/2)