紫陽花とカタツムリの恋 08
肩を貸してほしいという頼みを、お人好しの彼女が断るはずはないと、わかっていた。案の定、彼女は僅か躊躇ったが、及川の隣に並ぶ。
「私なんかの肩でよければ、どうぞ」
彼女の肩に腕を回す。細い肩だ。黒のスーツに淡い水色のシャツがよく似合っている。あの頃よりメイクが上手くなった。いつもこんな時間まで仕事をしているのだろうか。疲れて見える。至近距離で目が合いそうになって、慌てて視線を前に向けた。よく考えれば、大学時代もこんなに彼女に近付いたことはない。自分の心臓の鼓動が大きく聴こえる。東京と違って、深夜の道は人通りもなく、静かだ。彼女にまでこの音が聴こえてしまうのではないかと不安になって、何か喋らなければと口を開いた。
「なんか、ごめんね。大学の頃から、さんには助けられっぱなしだね。ノートとか、勉強とか」
「……そんなことないよ。私の方が、ずっと及川くんに助けられてた」
「え?」
思わず及川が振り向くと、彼女は遠くを見つめて微笑んでいた。その唇は、いつか及川が選んだ口紅とよく似たピンク色で。もしかして、そのときのことを言っているのだろうかと考えたが、彼女の続けた言葉は及川の予想とは全く違った。
「私ね、親が厳しくて、ずっと勉強させられてたの」
彼女は昔を思い出すように淡々と言葉を続ける。
「やりたいこともなくて、ずっと言われるまま勉強ばっかりしてきて、オシャレしたりとか遊んだりとか、全然したことなかった。親も先生も友達も、私はテストで一位を取って当たり前って思ってて、百点取っても、は頭良いからって言われてた」
大学のとき、一番前の席で、真っ直ぐに背筋を伸ばして講義を聴いていた姿を思い出す。あの丁寧に取られたノートにしてもそうだ。当たり前とか、頭良いとか、そういうことだけではなくて。
「高校二年のとき、テストで三位になったの。そしたら親に怒られてね。なんでできて当然のことができないのって。皆が押し付けてくる当たり前を維持するために、私がどれだけ勉強してるか知ってるのにね」
あれは、彼女が真面目に努力した結果の姿なのだろう。
「そのとき糸が切れちゃって、勉強する気なくなっちゃったの。それで、たまたま一人で出掛けたときに、近くの体育館でバレーボールの試合やってて観に行って……そこで、及川くんのこと見つけた」
ちょうど街灯の下に差し掛かった。彼女の表情がよく見える。
「準決勝だった。及川くんのチームが、負けた試合」
準決勝と聞いて、もしかしてと思ってはいたが、やはり負けた試合だった。なんだ、かっこ悪いところを見せただけか。そう思ったのに、彼女の目はキラキラと輝いていて。またひとつ、心臓が大きく音を立てた。
「及川くんのバレーしてる姿、すごく綺麗で、目が離せなかった。でも、それでも一歩及ばなくて。だけど、及川くん、全然下を向かずにネットの向こうを睨みつけて、次は負けないって、目が言ってた。客席にいる人が、及川くんのこと、天才だって話してた。才能が違うんだって」
天才、才能。言われ慣れた言葉だ。及川とて、かつて自分がそれを持っていると疑っていなかった頃があった。牛島や影山、自分に迫り、捩じ伏せ、いとも容易く追い越していこうとする本物の天賦の才というものを目にする度、自分はただちょっと上手いだけの優秀なプレーヤーに過ぎないということを自覚するのだ。努力しても努力しても。本物の才能には敵わない。それでも負けたくなかった。諦めてしまえたら、きっと楽だった。自分には才能がないのだと、天才に敵うはずがないのだと、負けて当たり前なのだと、諦めることができたなら苦しむこともなかったのだろう。だが、そこで諦めていたら、おそらく今の及川はない。その話していた観客は、諦めた側の人間なのだろう。才能が違うと言い切って、負けても仕方ないと笑ってしまえる者たちは、苦しくて苦しくて、自分を追い越そうと背中に迫ってくる才能を潰してしまいたいと思うほど苦しくて、それでも努力を続けることができるのか。それをできない人間に、簡単に天才だと言われたくはなかった。
「でも、見てたらわかるよ。体育の授業でバレーしたくらいの知識しかない私が、及川くんのプレーしてる姿を見て、綺麗だって思ったんだから。もがく姿が見えないくらいの努力をしてる人なんだと思った」
が少しバランスを崩しながら、足を止めた。及川が急に立ち止まったせいだ。街灯の下から外れたその場所で、の表情はよく見えない。つまり彼女からも及川の表情は見えていないだろう。よかった。青城のチームメイトたちは及川の努力をよくわかっていて、認めてくれていたけれど。ただ一度試合を観ただけの彼女がその向こうの努力に気付いてくれるとは思わなかった。絶対に今、顔が赤い。彼女はそのまま話を続ける。その声は、いつもよりも弾んで聞こえた。
「物凄い努力をして、でも負けて、だけど及川くんは、心を折ったりしなかった。その姿に励まされたの。私及川くんに初めて告白したとき、偶然同じ大学で、及川くんのこと見つけたって言ったでしょう?あれ、嘘なの」
初めて告白された日を思い出す。二年生の六月だった。紫陽花が咲いていた。あの頃はあまり彼女に関心がなかったせいで、彼女の告白の言葉もうっすらとしか覚えていないけれど、確かにそんなことを言っていた気がする。
「及川くんがあの大学に行くって、噂で聞いて。あれからまた勉強頑張ってたから、すぐに推薦で大学が決まった。手続きに来たときに、及川くんも、もう大学の練習に参加してた。その日から、ときどき体育館を覗きに来てたの」
親にはもっと上の大学に行きなさいって怒られたんだけどね、と彼女は付け足した。けれど、進路だけは頑として譲らなかったらしい。
「体育館をずっと見てたら、やっぱり及川くんは誰より練習してた。及川くんの頑張ってる姿を見てたら、私も頑張ろうって思えた。今だってそう」
あの頃から、彼女はいつだって真剣に、及川がバレーをしている姿を見ていた。最初は単にバレーが好きなのではないかと思ったほどに。それは、ただ及川のバレーを見ていたわけではなくて。及川の、必死にもがいて努力している姿を、見ていたのだ。
「テレビの向こうで頑張ってる及川くんを見てたら、頑張ろうって思えるんだよ。及川くんはずっと、私の憧れ」
今気付いたって、もう遅い。あの告白からもう、何年経ったと思っている。たとえ及川の心があのときから動いていなくても、彼女の心も同じとは限らない。憧れ。彼女はとっくに、あのときの恋を憧れとして昇華させてしまっているのかもしれない。もう遅い。たぶん、遅い、けれど。かつてを語る彼女の目がキラキラと輝いているから。まだ、間に合うのではないかと思ってしまう。
「私ばっかり喋っちゃったね。ごめん。及川くんのお家、この辺かな?」
「……うん、あそこのマンション」
「すごい、綺麗なとこだね」
「まあ、ほとんど使ってないんだけどね。俺普段東京にいるし、こっちには実家もあるし」
「そうなの?」
「うん。でも実家、俺の部屋は物置にされててもうないからさ。寝る部屋って感じだよ」
エントランスでオートロックを解除する。このままだと、彼女はもう帰ってしまうだろう。マンションまで送り届けたら、彼女がここに留まる理由はない。まだ、もう少し。彼女と話す時間が欲しい。
「さん、ありがと。もう大丈夫だよ……っと」
「大丈夫じゃないね。部屋まで肩貸すよ」
「ごめんね」
本当にお人好しなんだから。及川は心の内で呟いた。ほんのちょっとよろけて見せただけで、彼女は部屋までついて来てくれる。そんなだから、きっと会社でも仕事を押し付けられたりして、休日のこんな時間まで仕事をすることになっているのだろう。こっちはもうとっくに、酔いなんて醒めてしまっているのに。玄関を開け、靴も脱がないまま、及川はその場に座り込んだ。
「及川くん、大丈夫?ちゃんとお水飲んで」
気分が悪いのかと心配した彼女が差し出すペットボトルをスルーして、その細い腕を掴む。
「及川くん?」
「さん、大学の四年のとき、告白されてたでしょ。そいつとは、付き合ったの?」
「え?……うん、付き合ったよ。ほら、及川くんも彼女いたし、私もそろそろ諦めないと、って思ってたから」
ああ、そうか。普通、そうだろう。恋人のいる相手をいつまでも想っていても仕方がない。彼女の手を取ることをしなかったのは、他でもない自分自身だ。
「そっか……そうだね、さん綺麗になったよ。彼氏と順調なんだね」
「もう、そういう冗談言わないで。及川くんだって彼女いるでしょう?手、離して」
彼女なんて、もうずっといない。もしかして自分は、誰からも本気で好かれないし、誰のことも好きになれないのではないかと思うこともあった。けれど。今、彼女の腕を握る手が熱い。心臓が痛いくらいに脈打っている。この感覚を、三年間、忘れてしまっていた。腕を掴まえているせいで、彼女の顔が近い。
「俺は、ずっと、憧れなだけか」
「そうだよ。ずっと憧れ」
及川の口から漏れたのは、ひどく弱々しい声で。それに返す彼女の言葉の方がずっと、はっきりとしていた。あの頃とはまるで真逆だ。初めて彼女の存在を知った、あの六月とは。憧れ、なんて。恋とは違う。この、痛いくらいの心臓の鼓動も、訳もなく泣きたくなるくらい胸に溢れてくる感情も、目の前の彼女にはもう存在しないのだ。薄く色付いたピンクの唇に、キスしたいという、この衝動も。
「じゃあ、これは、今日のお礼」
最後の足掻きだった。憧れの存在であるならば、触れることくらい許されるだろう。ただ、彼女に触れたかった。犬に噛まれたとか、蜂に刺されたとか、その程度でもいいから。彼女の中に、自分の存在という傷跡を残したかったのかもしれない。触れた唇はあたたかくて、人の熱に触れることも久しぶりだと思い出す。だが、唇が触れ合っていたのはほんの僅かの間だった。胸が押されるようにして、の顔が離れていく。その瞳から、ひとつふたつと、透明な雫が溢れるのを目に留めて、頬を殴られたかのような衝撃が及川を襲った。
「……お礼?酔った勢いでされたキスで、私が喜ぶと思ったの?なんで……すきじゃないなら、こんなの、悲しいだけだよ」
の声は震えていた。それが怒りなのか、悲しみなのか、及川にはわからない。歪んだ表情で涙を流すに、何か声をかけようとしたのに、声が出てこなかった。どこも殴られてもいないのに、痛くて苦しい。胸が詰まる。ごめん、ちがう、そんな顔を、させたかったわけじゃない。
「ごめん。帰るね」
及川が何か言葉を発するより先に、彼女は頬を滑る涙を拭うと、足早に部屋を出て行った。廊下を走っていくヒールの音が遠くなる。追いかけなきゃ、謝らなきゃ、間に合わなくなる。そう思うのに、及川の足はちっとも動かなかった。間に合わない。そんなの、もうとっくに手遅れだ。最初から、間に合ってなんていなかった。
「……俺はすきだよ。ちゃんと、すきだよ。あの頃からずっと、さんのことしかすきになれない」
及川の喉から絞り出した小さな声が、誰もいない部屋にぽつりぽつりと落ちていく。
「諦めたくても諦められないのに、どうすればいいんだよ。教えてよ」
痛い、苦しい。息ができない。こんなにつらいのが恋だとしたら、こんな感情、知りたくなかった。諦められたら、きっと楽だった。自分と彼女は違うのだと、想いが通じ合わなくても仕方ない、こうなって当然だったのだと、諦めることができたなら。こんなに苦しむこともなかったのに。
胸に刺さったこの棘は、抜けないどころか傷を深くするばかりだ。
(2016/4/30)