紫陽花とカタツムリの恋 07




「へぇ、それでそれで?」
「それで終わり。その男と結局どうなったのか聞く勇気もなく、告白する度胸もなく、彼女を避けたまま卒業式を迎えて終わり」
「まじかよ、ヘタレすぎんだろ」
「もー!岩ちゃんなんでそれ言っちゃうのさ!」
「お前が先に俺の婚約話バラしたんだろが!」

大学を卒業してから三年が経った。卒業してから及川はプロチームに入団して東京に拠点を移し、宮城に帰ってくることもほとんどなくなった。全日本の代表選手にも選ばれたおかげでしばらく忙しくしていたが、今季のリーグ戦も終わり、ちょっと長めのオフに、久しぶりに宮城に帰ろうかと思いついた。そして、どうせならあの頃のメンバーで集まろうと飲み会を企画したのだが、休日出勤で少し遅れた花巻を加えて、場はますます盛り上がり、及川の扱いはどんどん雑になっていく。全日本代表選手で、一応有名人で、テレビにも出るし地元の商店街には垂れ幕だってあった。父も母も外では「息子さんすごいわね」なんて声をかけられて鼻高々だと噂で聞いたのに、及川の部屋はとっくになくなって物置になっている。お正月に実家に帰った際に、あんたの部屋もうないけど、と言われたのは二年前。全くもって酷い話だ。誰も彼も、及川にちっとも優しくしてくれない。花巻は物珍しそうに及川を見ながら、何杯目かのハイボールを煽っている。

「及川も本気で人を好きになることがあったんだな」
「……昔の話だよ。だから今は彼女ボシュー中です!マッキーもいい子いたら紹介してよね」
「こんなヘタレより俺に紹介して、花巻」
「まっつんひどい!俺たち彼女いない仲間でしょ!」

松川とくだらない言い合いをしながら、及川も店員の持ってきたビールを喉に流し込む。そうだ、昔の話だ。こうやって皆で酒の肴にして、笑ってしまえる、過去のこと。人の気持ちなんて、移ろいやすいものだ。近くにいたって気持ちは変わっていくものなのだから、距離を置いて、会うことがなくなって、年月が経って、思い出すこともなくなっていけば、簡単に忘れられる。花巻は昔も今も変わらず例の彼女と順調らしい。岩泉ももうすぐ結婚してしまう。松川だってフラれたと言うけれど、どうせまたすぐヨリを戻すのだろう。自分だけが置いて行かれてしまった。それなのに誰も優しくない。ヤケになってもう何杯目かもわからないビールを飲んでいると、少し離れたところに座っていた岩泉が、おもむろに及川の隣に腰掛けた。松川はトイレに立って、金田一が潰れて眠りこけて、渡と矢巾と京谷が終電だからと帰っていって、花巻は国見と何か喋っている。どうしたの。及川がそう問いかける前に、岩泉が口を開いた。

「及川、お前、まだ好きだろ」

それは、居酒屋の喧騒の中、及川にしか聞こえないくらいに潜められた声だった。警察仕込みなのか、小さくても確信を持った芯のある声が、耳に残る。先ほどまで、相変わらず牛島がムカつくとか、影山が腹立つとか、そんな話をしていたはずなのに。何の脈絡もないその問いかけに、及川は面食らった。

「……そんなわけないじゃん。何年前の話だと思ってんの」

ばかじゃないの、と思った。過去だ。昔のことだ。そりゃあ岩泉にはたくさん情けないところを見せたけれど、それだってもう、中学時代に殴られて怒鳴られたときのような、過去の思い出話に過ぎない。こうして皆に披露して笑ってもらうことのできる、過去の恋愛話のひとつ。なのに、岩泉は笑わなかった。

「そうか。俺は『何が』なんて言ってないけどな」

なにそれ。及川は、松川と入れ違いにトイレに立った岩泉の背を、ただ見送ることしかできなかった。声が出ない。いつそんな、カマをかける技術なんて身につけたのだろう。バレーの試合で活躍すれば、甘いマスクがテレビ受けするらしく取材やバラエティへの出演も増え、同時に女の子からの誘いも段違いに増えた。一般人は勿論、可愛らしいアイドルや美人の女子アナから連絡先を渡されることだってある。顔も可愛くて、スタイル抜群で、容姿だけで言えば、とは比べようもないくらいなのに。そうして、のことを思い出して、彼女たちと比べてしまっている時点で、ちっとも忘れることなんてできていないじゃないか。及川は笑う。どんなに彼女たちが可愛くても、心が全然動かなかった。日本代表のセッターのひとりとしてコートに立てるようになっても、あの頃犬猿の仲だった牛島や日向、影山たちと同じチームでプレイするようになっても、バレー選手として確実に上に向かって進んでいても。心だけが、あのときから動いてくれない。及川はその事実を頭から振り払うように、目の前のジョッキを握り締めると一気に飲み干した。

「及川、お前飲み過ぎだろ」
「うえええ……きもちわるい……」
「ったく、水買ってきてやっから待ってろ」

気まずさを誤魔化すようにビールを煽っていたせいで、会がお開きになる頃には、当然のように及川は酔っ払っていた。テーブルに突っ伏していると、会計を終わらせたらしい岩泉に起こされ、タクシーに詰め込まれた。しばらくそのままタクシーを走らせていたのだが、車の揺れでどうにも気分が悪くなってしまい、最終的に路肩に停めてもらった。車から転がるように飛び降りて。後から支払いを終えて追ってきた岩泉が大きく溜息を吐いた。そもそも酔ってしまうほど飲んでしまったのだって及川の自己責任で、呆れたような溜息に文句をつける気力も資格もなく、電信柱に頭を預けて蹲ることしかできない。コンビニか自動販売機か、目の届く範囲にそれらのものは見当たらなかったが、岩泉がそれらを目指してどこかに走っていくのを感じながら、及川はガンガンと頭の中からハンマーで叩かれているような頭痛と戦っていた。

「あの、大丈夫ですか?」

通行人は皆遠巻きに及川の後ろを足早に通り過ぎていく。そりゃそうだ。誰も見知らぬ酔っ払いに関わりたくなどない。だから、声を掛けられるとは思わなかった。気持ち悪くて、顔を上げたら吐きそうだ。きっともう少しすれば、岩泉が戻ってきてくれるだろう。及川は大丈夫だから早く行け、という意味を込めて手を振った。だが、その人物はなかなかその場を立ち去ってくれない。心配してくれるのは有難いが、放っておいてくれればいいのにと思わずにはいられなかった。気分は悪いが、大丈夫だということを伝えるために仕方なく顔を上げて。及川は目を見開いた。

「え……、さん……?」
「……及川くん?」

なんで。どうしてこんなところに。そんな疑問が次々と頭を過る。もう随分と遅い時間だ。女性が一人で出歩くような時間ではない。スーツ姿でいるところを見ると、仕事をしていたのだろうか。はあの頃と変わらない綺麗な黒髪を耳にかけながら、及川の顔を心配そうに覗き込んだ。

「あの、大丈夫?」
「あ、大丈、夫……っ」
「大丈夫そうじゃないね……」
「うん……飲み過ぎちゃってね……。あの、俺臭いでしょ。構わなくていいよ」
「そんな具合悪そうにしてる人、放って行けないよ。お水買ってくるから、待ってて」

慌てて立ち上がった瞬間に頭から血の気が引いて倒れそうになった。なんとか電信柱にしがみついて倒れることは免れたものの、やはりそこから動くのは難しそうだ。その様子を見て、は先ほど岩泉が言っていたのと同じ台詞を口にすると、すぐにその場から走り去ってしまった。待って、とも、岩泉がすぐに戻ってくるから大丈夫だ、とも伝えられなかった。そうだ。岩泉がそろそろ帰ってきてもいい頃だ。

「岩ちゃん、どこまで水買いに行ってんの……」

このまま、ここにいたら彼女が戻ってくる。また彼女と二人で話すなんて無理だ。こんな情けない姿も見せたくはない。彼女の連絡先はまだ残っている。大学を卒業してから、一度アドレスを整理したことがあった。大学時代にはよく連絡の来た女の子たちも、卒業すれば連絡を取ることは全くない。自分は結局その程度にしか思われていなかったのだ。だから、それらと一緒にの連絡先も消してしまおうと思った。どうせ、連絡なんてない。一度も彼女の方から連絡があったことなんてない上に、卒業してしまえば自分から連絡を取る勇気もきっかけもなかった。けれど、の連絡先の上で惑った指は、最終的に『この連絡先を削除しますか?』という問いにキャンセルのボタンを押していた。消せなかった。それだけが、唯一の繋がりのような気がしていたから。その電話番号を押す勇気もないくせに。岩泉が戻ってきたら、にメールを入れよう。大丈夫、ごめんね。それだけでいい。しかし、一体岩泉はいつ戻ってくるのだろう。そう考えたとき、携帯が震えた。液晶には、岩泉の名前が表示されている。

『よう、及川』
「岩ちゃん、今どこ?」
『帰る途中』
「はあ?!なんで……っ、おええ……」

大きな声を出すと頭に響く。よくよく電話の向こうに耳を澄ませば、かすかにエンジンの音が聞こえた。どうやら本当にタクシーか何かに乗っているようだ。いくら面倒だとはいえ、一人で動けない幼馴染を放って帰ってしまうような薄情者ではない。一体どうして。及川は電信柱にもたれて蹲った。

『お前が女と喋ってんの見えたから。お前の情けねぇツラ見たらわかった。その子だろ。そんなとこで会えるとか、ある意味運命なんじゃねーの。いい加減決着つけろ。鬱陶しい』
「ひどい!」
『後で骨くらいは拾ってやるよ。じゃーな』

ツーツー、と無情にも通話の切られた音が耳に届く。それと同時に、ヒールで走る足音が近付いてきた。岩泉の言う通り、いい加減、決着を着けなければならないのか。このまま、いつか気持ちが移ろいゆくのを待っているだけではいけないのだろうか。そのいつかが、いつやって来るのかはわからないけれど。

「及川くん、水買ってきたよ」
「……ありがとう」

息が荒い。本当に走って買いに行ってくれたのだろう。こういうお人好しなところは、変わっていない。口を濯いで、ペットボトルの半分を一気に喉に流し込むと、少しだけスッキリした。電信柱を支えに、ゆっくりと立ち上がる。はやはり心配そうに及川の様子を伺っていて、オドオドしているところが初めて告白されたときの彼女と重なり、懐かしさで口元が緩んだ。

「どうする?タクシー呼ぼうか?」
「いや、車に乗ったら吐きそう。ここからマンションまでなら、歩けると思うんだけど……さん、肩貸してくれない?」

たとえ同じ宮城にいても、こんな時間にこうして彼女に偶然会う可能性なんてゼロに等しい。岩泉の言うようにこれが運命なら、賭けてみたいと、思ってしまった。まだ、間に合うのかどうか。どうか、間に合いますように。及川は祈るように、を見つめた。





(2016/4/27)