紫陽花とカタツムリの恋 06
林間学校や修学旅行なんかで時折顔を覗かせるこの手の話題に、及川が困ったことは今までなかった。大抵のイベント事に参加する前には告白がつきもので、そういった話を振られるときには彼女がいたからだ。級友たちもそういった事情をもうわかっていて、あえて及川には聞いてこなかったり、逆に恋愛経験の豊富な先達としてアドバイスを求められたりする。それが常であって、今は及川の人生の中で状態異常と言ってもおかしくない。突如として舞い降りたこの衝動の置き場所を、『これは恋だ』と一瞬で見つけることができたのは最早奇跡に等しい。だってそれは今まで及川が恋だと勘違いしていたものとはまるで別物だったからだ。
「どうしよう岩ちゃん」
「どうしようじゃねーよ、お前たまに呼び出したかと思ったら……俺に相談する話かよ」
目の下に濃いクマを作った幼馴染の顔に、岩泉は少なからず動揺したようだった。相談がある、と呼びつけたのもあって、只事ではないな、と彼の中で結論付けられたらしい相談事の内容を聞くやいなや、岩泉は大きく溜息をついて姿勢を崩した。机の上に置かれたジュースを飲みながら、月刊バレーボールが綺麗に並べられた本棚を弄り出す始末である。だが及川とて、この難題を岩泉に相談する上で葛藤があったのだ。
「だってマッキーやまっつんに相談したら絶対笑われるもん!多少力不足感はあるけど岩ちゃんしか頼れなかったんだよ……」
「よし、帰るわ」
「待ってぇぇえええええ」
今まで恋とはどんなものか、周りに知ったような口でアドバイスまでしていた手前、この歳になって初めて人を好きになったなんて口が裂けても言えなかった。服の裾にしがみついて引き止めた岩泉に、ざっくりとこれまでの関係も踏まえて説明してみると告白を断ったくだりから溜息の嵐を食らう。こっちだって過去の自分に一生分の溜息を吐いたし、そもそもそのときには彼女のことを好きではなかったのだ。及川の言葉を受けて段々と変わっていく彼女に惹かれていったことは間違いではないけれど、二年目の冬に付き合ってみないかと言ったときだって自分の気持ちがよくわかっていなかった。そりゃそうだ、ついこの前に自覚したのだから。あまりの動揺に、彼女からの電話に適当に受け答えして、そのまますぐに家に帰ってベッドに埋もれて三日三晩ひと通り唸った後で、死にそうな声で岩泉に電話した。及川の知る中で、馬鹿にせずに淡々とアドバイスをくれそうな人物が岩泉しかいなかったのだ。
「つーか、普通に彼女と別れて、そっちに告ればよくね?向こうはお前のこと好きなんだろ?」
「俺よく考えたら付き合ってからフッたことないし、告ったこともないんだよね……」
「っし、帰って飯でも食うかー」
「岩ちゃんんんんんんんん」
立ち上がって本当に部屋を出て行こうとする岩泉の足を掴んで引き倒すと頭に重い鉄拳が飛んできたが、今更そんなものを気にする及川ではない。二十年近くに渡り、言葉より先に手の出る岩泉と幼馴染をやってきたのだから、物理的な痛みには慣れっこだ。岩泉は再びこれ見よがしに大きな溜息を吐くと、元の場所に座り直す。
「でも好きでもないヤツと付き合っててもしょーがねぇだろうが。向こうもお前のことなんかそんな好きじゃねぇんだろ?って言ってなかったか?」
「うん……たぶん」
「はあ、つーかこんなヘタレとよく付き合うわ」
「男の嫉妬は見苦しいよ、岩ちゃん」
「お前今の立場わかってっか?」
わかっているに決まってる。自分の状況が苦しいことくらい、及川にもわかる。付き合っている彼女ではない女の子に、本気の恋をしてしまったのだから。岩泉の言っているのはそういうことではないのだが、及川は神妙な顔で頷いた。
「とりあえず今の彼女に別れ話しろ!話はそこからだ!」
「……わかった」
別れ話をする、と言われても、どう切り出したらいいのかわからない。付き合っていても、特に及川のことを束縛するわけでも、二人で遊びに行くわけでもない。彼女の交友関係すらよく知らないし、彼女も及川にさして興味があるように見えたことはなかった。それを疑問にも思わず、むしろその距離感をちょうどよいくらいに思っていた。胸の高鳴りも、触れたいという衝動もそこにはない。それが普通だった。いつも通り、いや、いつもよりも順調なくらいの付き合いで。別れを切り出すほどの不満もない。ただ、この想いを知ってしまった今、関係を続けることができなくなってしまったのだ。どうしても手に入れたいものが、できてしまったから。及川は拳を握って胸を叩いた。言いづらいなんて、考えている場合じゃない。一緒に受けているはずの講義が終わった後に講義室に入ってきた及川を、彼女は不思議そうに見つめた。
「及川くん、どうしたの?寝坊?」
「いや、寝坊じゃ、ないんだけど。あの、話したいことがあるんだ。ちょっといいかな?」
「ほんと?ちょうどよかった、私もあるんだ」
大手の内定を既に勝ち取っているにも関わらず、彼女は未だ黒く戻した髪をそのままにしている。メイクや髪の毛を弄るのは上手いから、それでも重い印象にならないところは相変わらず凄い。
「私からいい?」
春の柔らかい木漏れ日の下、赤いリップの引かれた唇で、彼女は綺麗に微笑んだ。
「あのね、別れてほしいの」
ザァ、と木々の間を風の流れる音だけが響く。彼女は今何と言ったのか。それは自分が口にするはずの言葉ではなかったか。瞬きも忘れて目の前の彼女を見つめる及川に、変わらぬ笑顔で彼女は言葉を続ける。
「及川くん、私が及川くんのこと好きじゃないの気付いてたよね?ごめんね、利用したんだ」
好きじゃない。好きじゃないだろうとは、最初からわかっていた。彼女は自分を飾るアクセサリーが欲しいだけなんだろうと、だから自分を飾る以外のことには興味がないのだろうと、思っていた。どうやらそうではなかったらしい。少しだけ眉を下げて寂しそうに笑う顔に、何故か、いつかのの顔が重なる。及川くんに、ちゃんと好きになってもらえるように頑張るよ。確か、あのときはそう言った。
「私サッカー部の主将と付き合ってたでしょ?私がフッたことになってるけど、フラれたの」
その噂は、付き合い始めたばかりの頃に聞いたことがあった。スポーツをやっている男が好きなのか、自分も予選で負けたらフラれるのかもな、くらいにしか思っていなかったので、そんな噂もすぐに忘れてしまっていたけれど。
「サッカーもっと頑張りたいからって。私と付き合って練習量が減ったせいだと周りに思わせたくないし、言わせたくないからって。馬鹿みたいだよね。でも、まだ好きなの。だから嫉妬すればいいって思って、及川くんと付き合った」
嫉妬すればいいと思って。彼女の言葉に、及川はビクリと身を竦めた。心当たりのある言葉だった。同じような木漏れ日の下、花巻の彼女が口にした台詞が蘇る。
『それって、その子にヤキモチ焼いてほしかったんじゃないの?その子が自分のことをどれだけ好きか、知りたかったんじゃないの?』
自分と同じだ。彼女は及川が想像していたよりもずっと真剣な想いを抱えていて、アクセサリーとして及川を欲しがったわけではなかった。けれど、蓋を開けてみれば二人の考えていたことは、やはり変わらなかったのだ。付き合っているのか疑問が残るくらいに、相手に対して執着が湧かないのも納得がいく。一緒にいても、見ているのはお互い違う相手だったのだから。
「でもぜーんぜんダメ。頑張って同じ就職先に内定貰ったけど、なんかもう彼女いるみたい。だから、就活やり直すわ」
彼女は可愛らしい顔で首を振って、赤い唇で笑ってみせる。その目はひどく悲しそうだった。けれど、彼女が慰めも同情も期待していないのは理解できる。それらを与えてほしい相手は及川ではない。その相手がもう決して、温もりを与えてくれることはないだろうと、彼女自身もわかっている。及川でもいいのなら、このまま何も言わず付き合っていればいい。けれど、わかっていても、その代替に及川はなり得なかった。だからこそ、彼女は別れるという決断を下したのだろう。
「利用してごめんね。及川くんも好きな子できたらさ、遠回りしちゃダメだよ。間違って、どうしようもなくなって、手が届かなくなってから後悔するんだから」
彼女のいなくなった木漏れ日の下で、及川は時間が経つのも忘れて立ち尽くした。彼女は間違ったのだ。嫉妬すればいいと思って及川と付き合ったけれど、結局それで別れた彼の心を自分に向けることはできなかった。間違って、どうしようもなくなって、手が届かなくなってしまったら。泣きそうな目で笑った彼女の顔を思い出す。及川はギュ、と胸の上の服を握った。そうしたら、どうすればいいのだろう。携帯が鳴る。岩泉だった。及川は絞り出すような声で事の顛末を語った。途中で岩泉が大きく息を吐く音が聞こえる。こっちだって自分の情けなさに溜息を吐きたい。だが、溜息を吐くような余裕すら、もう及川には残されていなかった。
『お前の彼女の方がよっぽど男前じゃねーか。あ、元彼女か』
「……ほんとだよね」
及川は携帯を持っていない方の手を広げて、頭上に翳した。日が傾いて、影は一層濃くなり、形を変える。
「どうしよう、岩ちゃん」
及川を好きだという、の気持ちがずっと続くものだなんて誰が保証できるだろう。彼女に初めて告白をされたあの日から、もう二年が経とうとしている。充分な時間だ。気持ちが育つにも、枯れるにも。その間、どうしてもっと早く、この想いに気付けなかったのだろう。相手の気持ちを疑って、試して、そんなことをしている間に、心が色や形を変えてしまうとも限らないのに。木漏れ日を掴むように握った手は空を切る。
「手が届かなくなったら、俺どうしたらいいんだろう」
こんな弱気な声が、自分の口から出るとは思わなかった。電話の向こうで、岩泉が口籠った。何と返ってくるのか、予想はつく。それでも、聞かずにはいられなかった。
『……諦めるしかねぇだろ、その彼女みたいに』
まるで死刑宣告のような答えを、岩泉は渋々口にした。その言葉は、今までの岩泉の鉄拳制裁や暴言よりも、淡々として静かな口調で、むしろ及川を気遣うような空気さえ感じさせるのに。今まで感じたこともない痛みが胸を抉る。心臓に棘が突き刺さる。及川の様子が変わったことに気付いたのか、岩泉が電話の向こうで舌打ちした。
『だから諦めることになる前に告白してこい!!このヘタレ野郎が!!』
「……そうだよね。うん。ありがとう、岩ちゃん」
強く背中を押す声に、及川は折れかけた心を立て直す。バレーもそれ以外も、いつだって凹んだ背中を無理やりにでも押してくれるのは岩泉だった。そうだ。あれこれ考えたって仕方がない。二年前は、彼女が勇気を振り絞ったのだから、次はこちらの番だ。何て言えば、の心に一番響くだろう。いろんな台詞を頭の中でああでもない、こうでもないと考えながら、及川は走る。今のコマ、前回彼女は及川と同じ講義に出ていたはずだ。だからきっと、あの講義室にいる。講義が早めに終わったのか、もう多くの学生が出てきていた。その人混みの中に彼女の姿を探すが見つけられない。いや、はいつも丁寧に筆記用具を片付けるから、部屋を出るのは遅かった。それに思い至って講義室の後ろのドアから中へ入ると、前方に彼女の姿が見える。よかった、いた。そう思って話しかけようと思ったときだった。
「さん、あの、俺、君のことが好きなんだ。ずっと真面目でいい子だなって思ってて、それで、よかったら付き合ってくれませんか?」
彼女の隣には、見知らぬ男が立っていた。及川の頭の中を巡っていた言葉たちが、及川ではない男の声で聞こえる。よく見れば、それはいつもの近くで講義を受けている男で、たまに彼女と話しているのを見かけたこともあった。優しそうな雰囲気で、顔立ちも悪くはない。並んで立てば、二人はよく似合った。
「え……?あ、ありがとう……」
彼女はどうしたらいいのかわからないといった様子で、顔を真っ赤に染めて、俯いた。二人して赤くなって、焦っているところまでお似合いで。及川は、気付かれないようにそっと踵を返す。講義室の後ろのドアから出て、再び走り出した。今度はどこまで行けばいいのだろう。どこまで走れば、この胸の痛みから解放されるのだろう。今まで感じたこともない痛みが胸を抉る。心臓に棘が突き刺さる。岩泉の鉄拳制裁の方がまだマシだ。物理的な痛みには慣れっこなのに。この心臓に刺さった棘を抜く方法を、及川は知らなかった。
ねぇ、岩ちゃん。手が届かなくなったら、俺どうしたらいいんだろう。
諦めるしかねぇだろ、と。先ほどの岩泉の静かな声が、耳の奥で聞こえた。
(2016/4/16)