紫陽花とカタツムリの恋 05




九月の体育館はまだ暑い。窓や扉を全開にしても蒸し焼きにされてしまいそうな暑さの中、練習の手を止めることが許されるような学校ではない。ことバレーに関しては及川もそれくらいで音を上げるようなことはなかった。ただ、体育館の扉の隅には未だ彼女の姿はない。これほど暑いとギャラリー自体もほとんどいないのだけれど。昨日花巻と話してから余計に募る苛立ちを誤魔化すように、及川は練習に打ち込んでいた。最高気温を更新しそうだとテレビで言っていた通りの暑さに黄色い声もなく、蝉の鳴き声ばかりが煩い。体育館の隅に、よく見知った姿を見つけたのはそんなときだった。

「……え?」

まさか彼女が来るとは思ってもみなかった。及川が驚いたように目を向けると、彼女はひらりと手を振った。どうやら目的は及川で間違っていないらしい。練習はもうすぐ終わる。ここに来たからには、練習が終わるまでは待つつもりだろう。片付けを終え、手早く着替えを済ませると及川は走った。入口の隅の日陰にもたれかかるように彼女は立っている。額にはじわりと汗が滲んでいた。

「何してるの……マッキーを観に行きなよ」
「昨日貴大が及川くんの話してたから、ちょっと気になって。貴大には内緒ね」

花巻の恋人は、そう言って悪戯っぽく笑った。

「何、浮気?」
「まさか」
「うわ、即答。地味に傷つくんだけど」

軽口を交わして歩きながら涼しくて人気のない場所を探し、自動販売機でお互い飲み物を買って、木陰のベンチに腰掛けた。昨日の話。きっと彼女は花巻から聞いた話の他に、学内の噂も耳にしているのだろう。だから探り合うような言葉は必要ない。

「ねぇ、好きな人がいたら普通はさ、付き合いたいと思うでしょ?他に彼女ができたら、嫌だと思わない?もしマッキーに他に彼女ができたら、お似合いだね、とか言える?」

いきなり溢れ出した及川の問いかけにも、彼女は動揺することなく、静かにそれを聞いていた。花巻に他に恋人ができたら、なんて、ありえない質問も彼女は軽んじて笑い飛ばすことなく、想像を巡らせている。本当にそうなったときのことを思い描いたのか、少しだけ悲しそうに表情を歪めた。

「私はきっと、言えないな」
「そうでしょ?」

相手のことを好きだったら、普通はこういう反応をするはずだ。けれど、我が意を得たりと頷く及川に、彼女はゆるりと首を振った。

「でも貴大はそういうつもりだったよ」
「え?」

申し訳なさそうに笑う横顔には、長い間花巻の気持ちに気付いてあげられなかった後悔のようなものが垣間見えた。私、岩泉くんのことが好きだったでしょ、と零した言葉に頷く。彼女の岩泉への好意と同じくらい、花巻の彼女への好意も及川にはわかりやすかったのだが、その好意を向けられる側になると案外わからないものらしい。

「貴大は岩泉くんとのこと、ちゃんと真剣に相談に乗ってくれてた。協力だってしてくれた。私と岩泉くんが上手くいったら、たぶん、何も言わずに笑って身を引くつもりだったと思う」

岩泉と彼女を喋らせるため、花巻が何かと手を回していたのを知っている。岩泉は全くその意図に気付いていなかった上に、恋愛ごとをまるで自分とは違うところにあるもののように扱っていたから、彼女を意識することさえしていなかった。そんなのでも、花巻は彼女が岩泉と話すたびに苦々しい顔をしていて。そんなに嫌だと思うのなら、橋渡しなんてしなければいいのにと、及川はよく思ったものだった。だが。岩泉と二言三言会話を交わした彼女が嬉しそうに花巻の方を振り向くと、花巻もやったな、と嬉しそうに表情を緩めてみせたのだ。あんなに嫌そうだったのに、いや、本当に嫌だと思っているだろうに、その嬉しそうな顔が嘘だとも思えなかった。あのときの花巻の表情は、及川の記憶にも焼き付いている。

「相手の幸せを願えばこそってこと、あると思うよ。それってすごく及川くんのこと好きじゃないと、できないんじゃないかな」

花巻の彼女への想いがどれほど大きなものか、及川はよく知っている。付き合ったばかりの頃はまだ彼女の気持ちが岩泉に向いているんじゃないかと不安になっていて、そんな花巻をからかって遊んでいたこともあった。その度花巻には人が殺せそうなくらい睨まれた。あれほどの感情を見せられれば、嫌でもその想いの強さが伝わってくる。だからこそ、その花巻の感情に、の想いを重ねられることに違和感があった。

「そんなの……わかんないじゃん」

花巻のように、想いの強さを、が露わにしたことはない。だから、及川はの気持ちがわからないのだ。

「そうだね。でも私はそう思う」

個人的な意見だから、気にしないで。彼女はそう付け加えて、楽しそうに及川の言葉の続きを待っていた。高校三年の頃、二人で話したことを今でも覚えているのだろう。残念ながら、あの頃から及川は全く変わっていない。

「あとさ、マッキーに言われたんだ。今まで付き合った女の子たちが、他の男と楽しそうに喋ってたら、イライラしないのかって。でも、喋ることなんて普通にあるでしょ」
「ふふ、貴大はヤキモチ焼きだからね」
「それって大変じゃない?」

及川が心底不思議に思っていたことを尋ねると、今度は彼女が不思議そうな表情を返してきた。何か変なことを言っただろうか。いや言っていない。普通に暮らしていたら、何の感情もなくても、今の及川と彼女のように、他の男と話す機会なんていくらでもある。それにいちいち目くじらを立てるなんて、していられないだろう。俺は間違ってない、と及川は自分の中で言い聞かせる。

「でも、及川くん、その……『お似合いだね』って言ってきた子?に、イライラしたんでしょ?」
「……そう、だけど」
「及川くんは、ヤキモチ焼かれるの大変だなって思うのに、その子がそんな反応でイライラしたんだよね。それって、その子にヤキモチ焼いてほしかったんじゃないの?」

頭上の木を、風が揺らす。蝉の鳴き声が止んだ。羽音を立てながら、離れた木へと飛んでいく。葉が揺れ、木漏れ日が形を変える。その間、及川は一言も発することができなかった。

「その子が自分のことをどれだけ好きか、知りたかったんじゃないの?」

好きな人にヤキモチ焼いてもらうのって、嬉しいもんね、と彼女は何気なく口にする。

「好きな人って」
「……これは及川くんの話だけ聞いた私の意見だから、その子の気持ちはわからないけど」

ああ、こういうところを花巻は好きになったのだろうか。真剣に話を聞いて、自分の意見を押し付けることなく言ってくれる。彼女と花巻なら、きっと大きな衝突をしたとしても何回でも話し合って、上手くやっていけるんだろう。彼女の柔らかく笑う顔は、高校の頃から変わらない。

「及川くんは、その子のことが好きなんじゃないかなって、思うよ」
「……そんな、はずない」
「そっか」

でも、及川くんが人の気持ちが信じられるようになる日が来るといいなって、私はずっと思ってるよ。彼女が立ち去ったベンチに縫い付けられたみたいに座り込んだまま、及川は彼女の言葉を反芻していた。

大学生になって、三年目の冬が近付いていた。周囲が就活に向けて大きな合同説明会などを予約する中、及川はスーツの人波から少し外れたところでその喧騒を眺めていた。幼い頃から今まで、及川の人生の優先順位の一番上にはバレーボールがあった。大学に入ってからも卒業してからもおそらくそれは変わらない。自身が今プロ入りできるレベルの実力をつけていることは誰より自分が肌でわかっていた。全国の強豪と呼ばれる大学の中でもセッターとして脅威に感じる存在はほんの一握りだ。だから就活は、及川にとってはそれこそ他人事と言っても過言ではなかった。バレー部の中でもかなりの人数が部を離れ、あのスーツの集団の中に紛れている。染めていた髪を黒に戻し、綺麗に巻かれていた髪はストレートにして後ろでひとつ結び。白いシャツと黒のリクルートスーツ。メイクもぐっと地味に。打算的でしたたかな及川の恋人は、狙った大企業の内定を得るまでの短い間、自らのこだわりを捨てることさえ簡単にやってみせた。
もう付き合い始めてから半年が経とうとしている。バレー部の面々は新記録だと騒いだが、そのうちに飽きたのか何も言ってこなくなった。及川もようやく一人に落ち着いたか、なんて感慨深そうに声をかけられることはある。と言っても、彼女との距離が近付いているかと言えばそうでもなかった。時間と気分が合えば身体を重ねたり、バレーの試合には応援に来たり、たまに構内で周囲に見せつけるようにイチャついてみたり、けれど二人きりでいる時間などほんの僅かなものだ。バレーが第一優先でそれ以外が疎かになってしまう及川にとっては有難いが、本当に付き合っているのか疑問に思うほど、彼女は及川に対して無頓着だった。今まではそのせいで恋愛が続かなかったのだから、それを思えば気にすることではないのだけれど。

何事もなく年を越して、四年生の春。彼女にも就活の予定があり、丸々空いてしまった部活のオフの日、及川は少し足を伸ばして繁華街のショッピングモールを歩いていた。春らしいカラーの並ぶファッションフロアを流し見て、来たばかりだがそろそろ帰ろうかと出口に向かっている途中。化粧品売り場の中を通り抜けようとして、黒いスーツ姿が目に留まった。リクルートスーツ。就活生だろうか。後ろでひとつに縛った黒髪が綺麗だ、と思いながら通り過ぎようとして、その横顔が目に入った瞬間に立ち止まった。

さん?」
「あ……及川くん」
「久しぶり」
「……うん、久しぶり、だね」

しまった。話しかけるのは、あの夏の日以来だ。あれから二人の間にはずっと気まずい空気が流れていた。と及川の接点など共通の授業くらいのもので、普段から会話があるわけではなかったから、及川が気にしすぎているだけなのかもしれない。そう思おうとしたが、やはりは気まずそうに視線を彷徨わせていた。それはそうだろう。どう控えめに考えてもあのときの及川の言葉はキツイものだったし、にはそんな言葉を浴びせられる所以もなかった。けれど今謝るのも何か違う気がする。女の子相手でもそうじゃなくても、いつもなら適当な言葉がスラスラと出てくるのに、今日に限って及川の口も頭も全然回ってくれない。

「何、してるの」

結局口にできたのは、そんな言葉だけだった。もっとこの空気を払拭できるような気の利いたことを言いたいのに、出てきた声は感情をなくしたみたいにぶっきらぼうで、ますます居心地が悪くなる。ここにいても気まずさを重ねるだけだ。彼女が言葉を返してきたら、上手く会話を切り上げて帰ろう。そう決意していると、彼女は及川が思うよりも普通の声音で話し出した。

「えっと、夕方から二次面接、なんだけど」
「え、すごいじゃん」
「ううん、一次は通るのに、二次の面接ではずっと落ちてるの。上手く喋れなくて。勉強ができても、それじゃダメだよね」

彼女に手紙を貰って初めて話したときのことを思い出す。人見知りなのかもしれない。初対面の相手だと余計に緊張するのだろう。確かに真面目で勉強はよくできるのに、それで落とされたのではもったいない。

「緊張しちゃうのはすぐにはどうしようもできないから、メイクを変えようかなって思ったんだけど、どうしたらいいのかわからなくて……」

彼女の眺めていた棚に目を向けると、アイシャドウやアイライナーが並んでいる。アイメイクは重要だ。目は口ほどにモノを言う。ただ、メイク初心者が下手に弄るのは難しい。それよりは、簡単に印象を変えられるものの方が役に立つ。

「……とりあえずさ、チークと口紅買ったら?」
「え?」
「血色悪いと明るく見えないでしょ。口紅それ何色?もしかしてベージュ系使ってる?ほら、これとこれのがいいよ」
「え、ちょ、ちょっとピンク強すぎないかな?派手じゃない?」
さん血色悪く見えるくらい肌白いんだからこれくらいでいいの。あとこのリップブラシ。買ってきて」
「わ、わかった!」

売り場で目についたピンク系のチークと口紅を手に取る。彼女はメイク自体はしているが、おそらくチークをつけていない。日常的にメイクをしない人や初心者にありがちだと、たまにテレビで言っているのを見かける。口紅も、ピンクなんて似合わないと最初から決めつけているのだろう。顔色が明るくなるだけで随分印象が変わるものだ。特に第一印象が重要な場面では、それだけでも充分な効果がある。ビニールの袋を手に持って、は小走りで帰ってきた。

「買って来た?」
「うん……」
「じゃあそこ座って」

買い物待ちの父親らしき人々が腰を落ち着けているベンチの一角を指差すと、彼女は目を瞬いた。まさか及川にメイクしてもらうとは考えてもいなかったのだろう。だが普段慣れていないものを加減もわからずに使っては意味がない。

「及川くん、恥ずかしいよ……」
「それくらい我慢しなよ。面接受かりたいんでしょ」

そう言ってやると、彼女も言葉に詰まった。覚悟したような顔でベンチの片隅に腰掛けるのを確認して、口紅を落とすためにティッシュを渡す。擦らずに落ちるとこまで落としてね、と念を押し、チークのパッケージを開ける。

「頬骨のところにフワッと乗せるようにすればいいんだって。自分でやるときは濃くなりすぎないように気をつけて。でも薄くても意味ないからね」
「うう……難しいね……」
「これも勉強だよ。得意でしょ」

チークをブラシに取り、頬を撫でるように色を置く。くすぐったいのか恥ずかしいのか、ギュッと目を瞑る様が微笑ましい。色を乗せようとする側から紅潮していく頬の意味を、緊張して膝の上で固く握られた手の意味を、考えるたびにまだ自分のことを好きでいてくれているのだろうかという問いに行き着く。適当な告白を受けて彼女を作って、あんなに酷いことを言ったのに、まだこんなやつのことが好きなの。馬鹿じゃないの。そんなことを思いながら、反対の頬にも同じように色を置いていく。何かの呪いみたいに瞼の裏にきらめく夏の残像と同じ色をした白い肌に、及川の選んだピンクはよく映えた。彼女は派手と言うが、肌に乗せればそれほど主張の強くないピンクの口紅をリップブラシに取る。

「口紅は、直接つけると濃くなりすぎるからリップブラシでつけるといいよ」
「及川くん、詳しいんだね」
「テレビでやってたのたまたま見ただけだよ。あ、つけ終わるまで喋らないでね。あとちょっとだけ口開けて」

どうせリップブラシなんて持っていなかっただろうから、買わせておいて正解だった。僅かに開かれた唇に口紅を塗っていく。意外とぽってりしている唇は、色を乗せればより存在が際立って。

『及川くんは、その子のことが好きなんじゃないかなって、思うよ』

思い出した言葉と共に、心臓が大きくひとつ、音を立てた。嘘だろう。及川は胸の内で呟く。今まで一度も感じたことのなかった衝動が湧き起こって、胸が痛くなる。それはこれまで、女の子と付き合い身体を重ねるまでに必要な、関係を円満にする言わば挨拶みたいなもので。こんなふうに、突如衝動として襲ってくるようなものではなかった。

ーーキスしたい、なんて。

思ったことはなかったのに。

「……及川くん?」

動きが止まってしまったのを不審に思ったのか、彼女が首を傾げる。慌てて離れて、蓋をした口紅とリップブラシを彼女の手に押し付けた。

「ほら、大分変わったんじゃない?」
「ほ、ほんと?」
「うん、可愛い。ほら、自信持って面接行ってきなよ」

顔も碌に見ずに言ったことを、彼女がどれだけ真に受けたかはわからないが、ここで彼女を見つけたときよりもずっと、声が明るい。

「うん、頑張る」

頑張れの代わりに、早く行ってくれという意味もこめて押した背中は、一本筋が入ったようにまっすぐ力強くて。この衝動が、気の迷いであってほしいのに、背中に触れた手まで熱くなる。歩いて行くその背を見送っていると、角を曲がる前に不意に彼女が振り向いた。

「及川くん、ありがとう」

紅潮した頬。ピンクの唇が綺麗な弧を描く。弾むような声が、耳に残る。彼女が角を曲がって見えなくなると、及川は思わず、耳を押さえてしゃがみ込んだ。嘘だ、嘘だ。手が熱い、耳も熱い。心臓が痛い。訳もなく涙が出そうになる。恋とは、するものではなく落ちるもの。そう言ったのは一体誰だったか。

『及川ってさ、モテるわりに恋愛偏差値低いよな』

いつかの、花巻の言葉が蘇る。ああ確かに、そうかもしれない。胸の辺りの服を掴む。顔がタイプとか、性格が好ましいとか、そんなのとはまるで違う。こんな歳になるまで、知らなかった。及川の携帯が鳴る。恋人の名前が表示された液晶をしばらく眺めた。こうしていつだって、タイミングと判断を見誤る。

今、初めて恋を知った。そんなこと、言えやしない。





(2016/2/7)