紫陽花とカタツムリの恋 04
窓の外に降り続く雨と、日に日に色濃くなっていく紫陽花が梅雨の訪れを告げる。及川が初めての存在を知ってから、一年が経とうとしていた。及川はまた、あの寒い講義室を思い出す。
『えっと、及川くんは……私のこと好きになってくれたわけじゃないよね』
おおきく見開いた目で何度か瞬きを繰り返した後、彼女は小さな声で、でもはっきりとそう言った。諦めたようなその笑みは、わかってるよ、とでも言いたげで。好きか嫌いかで言えば、好きだ。今まで周りにいないタイプで、好ましいと思う。けれど。あれだけいろんな女の子に好意を寄せられていながら、今更こんなことは誰にも打ち明けられないけれど、もう恋愛的な意味で好きという気持ちがどういうものかなんて、わからない。ただ、それに憧れる気持ちは、きっと誰より持っているのだ。
『……わかんない、けど、付き合っていくうちに好きになれるかもしれないでしょ』
隣にいるうちにお互いのことを想い合うようになった、彼らのように。高校時代、唯一及川が羨ましいと、心から零した二人。花巻の彼女は今も同じ大学にいて、たまに花巻と一緒にいる姿を遠くに見かける。声をかけてもいいのだけれど、そのたび固く結ばれた二人の想いを見せつけられるようで、大学に入ってからはあえて近寄ることはしなかった。
『そっか。私は、及川くんが好きだよ。でも、やっぱり中途半端な気持ちのまま付き合うなんて、私にはできないから……』
冬の静かな講義室に、白い息とともに言葉たちが溢れては消えていく。彼女ははっきりと好きだと口にするが、及川は納得がいかなかった。好きならば、どんな形であれ付き合いたいと思うものではないのだろうか。
『お互いが好き合ってから付き合うなんてさ、そんな考え方って固くない?』
『うん。でも、私頑固だから。もうちょっと頑張りたいの』
及川くんに、ちゃんと好きになってもらえるように頑張るよ、と彼女は寂しそうに笑った。
『わけ、わかんない』
彼女が何を考えているのかわからない。女の子に好かれるなんて息をするみたいに簡単で、彼女は自分を好きなはずなのに、どうして首を縦に振ってくれないのだろう。付き合うなんて、そんなに難しく考えることじゃない。ただ気が合えば付き合ってみて、違えば別れればいいのだから。もしかしたら今度こそ、合うかもしれないのに。
窓の外の止まない雨を見つめながら、及川は講義室の一番前の席に視線を向ける。そこにはやはり真っ直ぐに背筋を伸ばしたが座っている。あれからまた、共通の話題なんてない二人はほとんど話すことはなくなってしまった。ただ、たまに体育館の扉の片隅で彼女が練習を見ていることだけは変わらない。講義が終わっても振り向くこともしない後ろ姿を眺めていると、及川の座る机がトントンと小さく音を立てた。
「及川くん、ちょっといいかな?」
「うん、なに?」
そこに立っていたのは緩くウェーブした茶色の髪を揺らす睫毛の長い可愛い女の子。ショートパンツから白い脚が伸びている。確か、去年ミスコンに出ていたような。小首を傾げる仕草は、自分の可愛さをわかっているんだろうと思わせられた。連れて行かれたのは講義室のある廊下の端っこで、彼女は自分の名前を告げると、早々に本題を切り出した。
「あのね、私及川くんのこと、前からいいなーって思ってたんだ。でもなんかさんと噂あったから遠慮してたんだけど」
「ああ、全部デマだよ」
「そっかー、だよね!」
言外に全然似合ってないもんね、と言いたげなその言葉と一緒に意味ありげな笑みを浮かべる。自分なら似合うと考えているのが透けて見えるが、彼女はそれでも構わないのだろう。グロスの塗られたぽってりとしたピンクの唇は、打算を含んだ笑みでさえ可愛らしく見せてくれる。
「それで、もしよかったら、私と付き合ってもらえないかなぁ?」
わかる。彼女は別に及川のことが好きなわけではないことくらい。透けて見える頭の内があまりに自分に似ているから。結局、皆自分が一番好きなのだ。恋人なんて、自分を飾るアクセサリーのひとつ。可愛い自分に釣り合う、かっこよくて優しい恋人が欲しい。見返りは可愛い自分のカラダと時間。なんて単純なギブアンドテイク。
「……いいよ、今、彼女いないし」
頷いたのはただの気分だ。お互い好き合ってから付き合うなんて、そんな考え方は堅いと自分で口に出した手前、という考えもなかったとは言えない。こんなに考え方が同じなのだから、いつかはお互い好きになれるかもしれないという期待も、なくはなかった。少なくとも、彼女の考えていることは理解できる。
「及川くーん、がんばってぇー!」
「及川、新しい彼女かよ」
「うわ、去年ミスコン出てた子じゃん」
「別にいいでしょー」
体育館の中で、彼女の甘ったるい声は一番響いていた。例によって、チームメイトからは冷やかしが飛ぶ。これでも、久しぶりにできた彼女だ。今度は何ヶ月もつか、いや何週間か、大穴で三日で。そんな声があちこちから聞こえるのをそのままに、及川はボールを放る。エンドラインで踏み切って、腕をしならせ高く上がったボールを打ちおろす。サーブはコートのギリギリに決まった。調子は悪くない。なのに、及川の気分は晴れなかった。体育館の隅に、の姿はない。もっとも、彼女だって毎日見に来ていたわけではないけれど。
「でもあの子って、最近までサッカー部の主将と付き合ってなかった?」
「別れたんじゃね?」
サッカー部といえばかなり強かったはずだが、そういえば今年は県予選の序盤で敗退したのだったか。なるほど、強いスポーツマンというのも彼女の欲しがるアクセサリーの条件に入っているのかもしれない。バレー部はまだ予選を勝ち進んでいる。牛島は県外に進学したから、特に障害になるようなチームもない。強いて言えば、烏野の変人コンビ、日向と影山が進学したチームくらいか。
「どうだっていいよ」
予選で負けたら、こっちも捨てられるのかもな、どうだっていいけど。チームメイトに吐き棄てるのと同じように自分の胸の内でも笑う。今までと同じだ。ちっとも変わらない。あの冬の講義室で、確かに変わりたいと、願ったはずだったのに。
彼女と付き合い始めて、三か月が経った。交際は思いの外順調で、今までの恋人たちのように及川がバレーばかりだからといって責めてくるようなこともしなかった。試合には必ず駆けつけて、誰よりも響く甲高い声で応援してくれる。及川が活躍すれば、周囲からは『あの及川の彼女か』と羨望と嫉妬の視線が集まるのだと、彼女はいつかベッドで語っていた。それを恍惚とした表情で語って悪びれもしないところはむしろ好感が持てた。今までの恋愛遍歴が随分なものだったせいで、おそらく自分の中の好感度の基準は他人と大分ズレていると及川も自覚している。
そして、はあれから一度も体育館に現れることはなかった。夏休みも終わりかけた頃、練習に向かう途中、久しぶりに構内に彼女の姿を見かけた。相変わらず暑そうなロングの黒髪と白っぽいロングのスカートが風に靡いている。白いノースリーブのシャツから伸びた日焼けを知らない生白い肌に、ほんの少し、目を奪われた。彼女も正面から歩いてくる及川に気付いて、僅かに視線を彷徨わせる。
「さん」
「及川くん」
「どうしたの、こんなところで。夏休みなのに」
「……ゼミの先生に、返さなきゃいけない本があって。そういえば、バレー部、全国出場するんでしょう?おめでとう」
試合も練習も観に来てはいないはずだが、バレー部の情報は耳に入っているようだ。そんな彼女が、及川の新しい恋人について知らないわけがない。
「さん、俺、彼女できたから」
「……うん、お似合いだと思った」
当てこする気持ちが、なかったと言えば嘘になる。あのとき、あの冬の講義室で彼女が頷いていれば、隣にいたのは彼女だったかもしれないのだ。付き合ってみれば、今の彼女のように上手くいっていたかもしれないのに。お似合いだと、軽く笑ってみせる彼女に苛立ちが募る。
「それだけ?結局さんの気持ちだってさ、その程度だったってことだよね」
思わず口を突いて出た。なんだ、好きだ好きだと言いながら、彼女だって、すぐに諦めて笑ってしまえるくらいの、そんな気持ちなんじゃないか。そう思ったら、言うつもりなんてなかったはずの言葉が零れて、慌てて口元を覆う。彼女は少しだけ表情を歪めて俯いた。
「……私の気持ちなんて、及川くんにはわからないよ」
夏の日差しで焼けつくコンクリートに、小さな声が落ちた。踵を返した彼女の目に涙は見えなかったけれど、ほんの僅か、潤んでいたようにも見えて。
「わかるわけ、ないじゃん」
及川はひとり、彼女の立ち去ったその場所から動けないまま呟く。彼女の気持ちも、何を考えているのかも、何もわからない。わからないから、言葉にならない苛立ちばかり、及川の中に積っていく。
「あれ、及川じゃん。何してんの」
「マッキー……」
声をかけられた方に振り向くと、ここの学生ではないはずの花巻がそこに立っていた。目的はわかりきっている。花巻の彼女はこの大学に通っているのだから、待ち合わせか何かだろう。たまに見かけることはあったが、花巻とは随分久しぶりに喋るような気がする。
「今の子、彼女?」
「違うよ」
「マジか。彼女かと思った」
しばらくの歩いていった方をじっと見ていた花巻が、そう言って心底驚いたような顔で及川の方に向き直ったものだから、及川の方が面食らってしまった。そんなに意外に思うことじゃないだろう。むしろ噂になっていた頃には似合ってないと言われ続けていて、及川自身も、概ねその意見には賛同している。
「なんで?俺の彼女っぽいタイプじゃないでしょ」
いかにも真面目そうな見た目で、見かけを裏切らず、中身もとんでもなく真面目でお堅い。普通なら、及川みたいなチャラい男はむしろ嫌いで、岩泉なんかを好きになるタイプの女の子。花巻の彼女の場合、中身は真面目であるものの、外見だけは及川のファンに近いようなタイプだったが。
「え、だってお前が女相手にそんなイライラしてんのとか初めて見たし。いっつもへらへら笑ってんのにさ」
イライラ、している。それは及川も自覚していた。だが、言われて初めて気が付いた。そうだ、いつもなら何か言われたって、笑って冗談のひとつでも混ぜながら和やかに受け流すことができる。そもそも、彼女の言葉は普通なら怒るようなことじゃない。上手くいっている恋人のことを、お似合いだねと褒められて、一体何に苛立つというのか。けれど及川の中には、まだ靄のようにその感情が立ち籠めている。
「普通彼女にはニコニコするでしょ。イライラしたりする?」
「……及川ってさ、モテるわりに恋愛偏差値低いよな。ほんと残念イケメンだわ」
「自分が付き合い長い彼女いるからってマッキーに恋愛偏差値のこと言われたくなーい……」
「いやでもさ、実際及川イライラしたことねーの?彼女に」
「今まで付き合ってきた子に?ないよ」
そういえば、女の子にイライラしたことなんて、今までなかった。
「男と楽しそうに喋ってんのムカつくとか」
今まで付き合ってきた女の子たち、今付き合っている恋人、皆を思い浮かべる。男友達のいる子が多かったし、クラスメイトとだって日常の中で喋る機会はいくらだってある。談笑くらいするだろう。それにいちいち腹を立てるなんて、その方がおかしい。
「喋るくらい普通にあるでしょ。それくらいでムカつくって心狭くない?」
「……お前ほんとダメだな」
呆れたように溜息を吐いた花巻にムッとする。言い返そうとしたけれど、何て言えばいいのかわからなくて喉の奥で言葉が詰まった。何がダメなのか、何がいけないのか。わからないから、反論するための言葉が見つからない。及川が黙っている間に、花巻の手の中で、携帯が可愛らしい音を立てた。
「あ、ワリ。あいつ呼んでるから、もう行くわ」
「うん、じゃあ、またね」
「おう」
花巻は幸せそうに表情を緩めて歩いて行く。その後ろ姿を見送る及川の目に夏の日差しが刺さった。眩しさに思わず目を閉じる。瞼の裏にはノースリーブのシャツから伸びた白い腕が、まるで残像のようにきらめいていた。
(2016/2/3)