紫陽花とカタツムリの恋 03
二人で自販機の前で喋ってからしばらく、どこかで誰かに見られていたらしく、また噂が広まった。顔が近かったのは、角度的にキスしたように見えていたようだ。彼女は噂がおさまるまで、練習を見に来ることはなかった。入口に目を向けては、そこに彼女の姿がなくてモヤモヤする。
「及川ー、お前あんま真面目な子からかってやるなって」
「別に、からかってないよ」
「え!?なに、マジってこと!?」
「ちがう、何もなかったって、この前から何度も言ってるでしょ」
ノートを借りて、そのお礼にジュースを奢っただけ。目にゴミが入ったから、とってあげただけ。後半は嘘だけれど、そんな言葉はスラスラと口から出てきた。でもその言葉を誰も信じてくれていないのは火を見るよりも明らかだった。女の子たちには節操なしだと思われて、真面目な子からは以前にも増して距離を置かれ、そうじゃない子からは遊びの誘いが絶えない。適当にしていれば、噂話なんて皆そのうち飽きていくだろう。好みの子とは、それなりに遊んだ。そしてまた皆がからかう対象が移った、冬も間近になった頃。彼女はようやく体育館の傍に現れた。授業中にも後ろ姿はもう何度も見ていたけれど、久しぶりに見た彼女は、大きな変化がひとつあった。眼鏡がない。だが練習を見てくれているということは、コンタクトにしたのだろう。一体いつの間に。
『ほら、眼鏡とったら、結構いいんじゃない?』
思い出されるのは、あの会話だ。やっぱり、眼鏡よりはコンタクトの方がいい。ボールを受け取って、手の中で回す。練習に集中しているように見せながら、不自然ではない程度に彼女の方へと目をやってしまう。そんな自分に、及川は気付かないフリをした。
冬。長い春休みの始まる前、及川はまた例の如く訪れる試験シーズンに頭を悩ませていた。教授がゆるいと聞いていたけれど、それに乗じて出席日数ギリギリの綱渡りをしていたら、テストの点をかなり稼がなければ厳しい状況に追い込まれてしまった。全くもって、自業自得。どうしたもんか。自販機の横で壁にもたれ、ジュースを飲みながら考えていると、見知った姿が目の前を横切る。
「……さん」
「及川くん」
こんにちは、と彼女はいっそ不自然なくらい普通にそう挨拶した。自販機で、あのとき及川が買ったものと同じ紅茶のペットボトルを購入している。彼女はそれを買い終えたら、そのまま、世間話のひとつもせず、何も言わずに去って行ってしまいそうだ。何か気に障ることでもしただろうか。思い当たることが多すぎて、及川は考えることを放棄した。相変わらず、彼女は真面目そうで、授業も一番前の席。及川との接点は、前期で借りたあのノートのコピーくらいのものだった。彼女はどうやって勉強をしているのだろう。あれだけ真面目で、授業を理解したノートがとれるのだから、成績も良いはずだ。高校の頃のように成績の貼り出しなんかがないから、正確にはわからないが。
「さん。あの、さ。勉強、教えてくれない?」
何も言わなければそのまま帰ってしまいそうだった彼女を呼び止める。買ったばかりのあたたかい紅茶のペットボトルを両手で持ったまま、彼女は目を瞬いた。
「え?」
「今度の試験、俺出欠ギリギリだから、結構やばくて」
ね、お願い。手を合わせて眉を下げて、困ったように笑ってみせる。女の子はこれで大抵、及川のお願いを聞いてくれた。彼女も例外ではなく、頬を少し染める。とても簡単。昔から、全然変わらない。ずっと隣にいた幼馴染から言わせれば、そんなだからチャラついて見えるし殴りたくなるのだそうだ。だが、仕方ないだろう。こんな生き方しか、知らないのだから。
「いい、けど」
「けど?」
「また、勘違いされないかな……及川くん、人気だから。何もなかったのに、あんなに噂になるんだね」
「もしかして、何か迷惑かけた?」
「ううん。仲良い友達は、皆私の言うこと信じてくれたから。『あの及川くん』と私なんかが、釣り合うわけないもの」
及川は気付かれない程度に、眉を顰める。噂は及川にしてみればいつものことだけれど、彼女は今までそんなこととは無縁だったのだろう。長いこと体育館にも現れなかったことから、迷惑をかけたかもしれないとは思っていた。及川にとっても、別に何とも思っていなかったわけだから、お互いにとって本意ではない噂だった。けれど。及川は胸を押さえる。何故こんなに、鉛を喉の奥に押し込められたような気分になるのだろう。彼女にしてみれば、たぶん当然だと自分で思っていて、それがどんな意味を持つかなんて、ほとんど気にしていない言葉。だが、微笑みながら彼女が口にした『あの及川くん』という言葉は、及川と彼女の間に明確な線を引いていた。
「図書室……で勉強したら、また目立っちゃうよね」
「さんが迷惑じゃないなら、俺はどこでもいいよ」
及川がモヤモヤとした塊を持て余している間にも、彼女はいろいろと考えを巡らせているようだった。勉強する場所なんて、どこだって構わない。相手が彼女じゃなくても、どうせ及川はいつだって噂の渦中にいる。だが、あれだけ真剣に見たいと言ってくれた練習から、また彼女を遠ざけてしまうのなら、できるだけ面倒は避けたいと、及川も思った。
「そう、だね。じゃあ空いてる講義室で、いいかな?お昼休みの時間とかはどう?講義が終わった後は練習だろうし……」
「うん、それでお願いしてもいい?あ、場所の連絡とかあるから、連絡先教えとくね」
「えっ、あっ、うん」
彼女が鞄から取り出したスマホには、カバーもストラップもついていなくて、それが彼女らしい。前の彼女は、キラキラしたデコレーションのカバーを使っていたっけ。そのカバーにデコレーションしてあったキャラクターは思い出せるのに、肝心の彼女の顔がぼんやりとしか思い出せなくなっていて、及川は苦笑した。相変わらず、浅い付き合いだ。
「さんの連絡先教えて」
「えっと、はい」
画面に映ったメールアドレスを、素早く入力する。その間、彼女は呆気にとられたような顔をして、ただ及川の為すがままになっていた。メールアドレスにはハイドランジア、という単語が入っている。紫陽花の洋名。紫陽花、そんなに好きなんだ。ふーん、と特に感慨もなく考えながら、メールを打った。だから、紫陽花の季節に告白をしてきたのだろうか。
「メール送った、それ俺だから、登録しといてね。じゃあ、また明日」
及川の連絡先が新たに登録された携帯を、彼女はペットボトルと一緒に大事そうに抱え込む。その様子に、及川は少しだけ高校時代を思い出した。自分が連絡先を教えた女の子は皆、それを周りに自慢していた。及川徹の連絡先を知っている。それは彼女たちの間で一種のステータスのようになっていて、そのステータスのひとつとして扱われることに、少しの嫌悪を感じたことを、覚えている。それなのにそれを気にする素振りをするでもなく笑ってみせたりなんかして。
『ったく、羨ましいぜ。いいよな、モテる男は』
高校時代、花巻が肩を竦めながらそう口にした。確か、二年の頃。実際、ちっとも羨ましく思っていないことなんて、彼の顔を見ていればよくわかった。どうせ見ているのは上辺だけ。それを彼もなんとなく察しているようだった。それに彼が本当に羨ましいのは、ただじっと熱心に視線を向けられている、及川の幼馴染ただひとりだということも、及川は知っていた。岩泉のことを真剣に好きな女の子を好きになるなんて、不毛な恋だと思った。それならまだ上辺だけでも、可愛い女の子と付き合っていた方が有意義だと。けれど、彼は結局、三年になるまでその女の子一筋で、最後には二人は付き合うようになって。周りから見ても、二人は、ぎこちないながらも想いの強さがよくわかる。あれはきっと、及川の理想そのものだった。
『羨ましいなぁって思っただけ』
いつだったか、花巻に向けて及川が零した言葉は、自分でも痛いと思うくらいに本音だった。たぶん彼は、そんなこと気付いてはいないだろうけれど。
人のいない講義室は、暖房がついていない分寒い。二人とも上着をしっかり身につけたまま、ひとつの机を挟んで座る。机の上にはノートと講義のレジュメ、筆記用具、そして及川が買ったホットの紅茶が二つ並んでいる。
「ここは、この前の流れから頭に入れていくといいよ。単体で覚えようとするからこんがらがるの。関連づけて覚えていった方が頭に入るし、混乱しないよ」
講義よりも丁寧でわかりやすい説明。彼女はゆっくり喋る方が合っているのか、及川に告白をしてきたときよりも、ずっと耳障りの良い声をしていた。
「ありがとう、さん。勉強のコツがだいぶわかってきたよ」
温かい紅茶を喉に流し込みながら、先ほど教えてもらったところをもう一度なぞる。彼女も一言お礼を言いながら、紅茶を手に取った。
「役に立てたなら、よかった」
安心したように笑顔になった彼女は、やはり以前よりかわいらしい。
「さん、やっぱり眼鏡じゃない方がいいね」
「そう、かな」
「うん、そっちの方が可愛いよ」
分厚い眼鏡はその分距離を感じた。感情が見えにくくなる。目は口ほどに物を言う、とよく言うけれど、その通りだ。彼女は及川の言葉に、素直に頬を染める。
「ありがとう」
「……お礼言われることじゃ、ないけど」
本当のことを言っただけ。前のときと同じように言えば、彼女もまた前のときと同じように首を横に振った。
「ううん、私なんか頑張ったって、可愛くなれるわけないって、最初から諦めてた。だけど及川くんがそう言ってくれて、少しでも……変われるなら、変わりたいって思ったの」
よく見れば、野暮ったい服装も少しだけ垢抜けてきている。以前の彼女なら絶対に冬は暖かさ重視でダウンを選んでいただろう。だが、彼女が今着ているのはAラインのダッフルコートで、下のスカートが少しバランスが悪い気はするけれど、以前よりはマシになっていた。何気なく言ったことだったが、彼女はそれを受けて半年間、少しずつでも変わっていこうとしていたのだ。
「だから、ありがとう」
そう言って微笑む彼女は、とても綺麗に見えた。及川は半年間、いやたぶん、もっとずっと前から、同じ場所に立ち止まったままでいる。
「……ねぇ、さん」
彼女と一緒にいれば、何か変われるだろうか。体育館の外から向けられる真剣な眼差しを見つけるたび、彼女の好意を信じたいと思う。心が揺れる。
「俺たち、付き合ってみない?」
机の上で紅茶のペットボトルを包む手に、そっと及川自身の手を重ねると、視線の先で、彼女の目が大きく瞬いた。
(2015/8/24)