紫陽花とカタツムリの恋 02




それから彼女はよく練習を見に来るようになった。黄色い声で及川の名前を呼ぶ派手めで可愛い女の子たちと違って、相変わらず厚ぼったい眼鏡に野暮ったい服装だけれど、バレーを見る目は真剣そのものだった。あれは一応告白、だったんだよな、と疑ってしまうくらいには、ちゃんと試合全体を見てくれていて。もしかして、バレーが好きなだけだったのかと思うが、その中でも特に及川に向ける視線が殊更真剣なものだから、たぶん間違いではないのだろう。体育館裏で告白されたものだから、その場面を見ていたチームメイトには随分からかわれたが、本当に練習や試合を見に来るだけで、彼女は一切近付いてくることはなかった。そのうち全員飽きてしまって、からかわれることも彼女を気にする者もいなくなり、及川自身も告白されたことさえ記憶から薄れていった。
梅雨が明けて蝉の鳴き声が聞こえてくるようになり、同時に大学の講義もテスト期間やレポート提出期限が迫ってきていた。及川は手の中のシャーペンをくるりと回す。バレーに夢中になっていた代償だろうか、一番難しいと噂の必修のノートが足りない。普段チャラチャラとしているものだから、こんなときになって完璧なノートをとっている知り合いなんていない。類は友を呼ぶという言葉に違わず、皆及川と同等くらいには不真面目だ。どうしたものかと思って眺めた大講義室の一番前の席に、及川は見知った姿を見つけた。

「あ」

あの子だ。厚ぼったい眼鏡に黒髪ロング。だが今まで周りにいなかったタイプの真面目そうな女の子。告白されてから一回も話しかけることはなかったけれど、向こうは及川のことを知っているだろうからちょうどいい。きっとノートだって真面目にとっているはずだ。

「あ、及川くん」

及川が目の前に来ると、彼女の方から声をかけてくれた。同じように呼び返そうとして、及川はぐっと言葉に詰まる。開きかけた唇からは何の音も発せない。そういえば、彼女の名前さえ知らなかった。手紙に書いてあった気がするが、ぼんやりとした字面すら思い出せない。

「えーと……、ねぇ、ノート、コピーさせてくんない?俺、あんまりちゃんと講義出れてなくて」
「えっ、はい、いいですよ!私のノートでよければ…」
「ありがと。あ、返すの」
「来週の講義でいいです」
「勉強とか、困らない?」
「もう大体頭に入れてありますから……」

微笑む彼女にもう一度、ありがとうと繰り返して、キャンパスノートを受け取る。表紙には講義と自分の名前が記されており、彼女のことはまだ何も知らないけれど、ルーズリーフじゃないあたりが彼女らしく思えた。



表紙に綺麗な楷書で書かれたその字は、いつか貰った手紙と同じように丁寧だ。ごちゃごちゃの鞄の中を覗いて、一番端に、折り目なんかがついたりしないように慎重にノートを仕舞う。整理するのも面倒でほったらかしの鞄の底には、いつかの彼女から借りたまま返すのを忘れたボールペンだの、いつ貰ったかも定かじゃないストラップだのが散らばっている。彼女のノートは、それらと同じように扱うべきじゃない。何故かはっきりとはわからないけれど、そう感じた。コピーした彼女のノートはやはり綺麗でわかりやすくて、彼女なりの解釈なんかも書き加えられていて頭にすんなりと入ってくる。一番難しいテストだと話題の講義だけれど、このノートさえあれば完璧かもしれない。翌週まで待つべくもなく、及川は翌々日の講義で彼女の背中を見つけた。皆が嫌がる一番前の席。そこに座って背筋をピンと伸ばして、ノートと教科書を広げている。この講義も被っていたのか。及川はいつだって数人の女の子やバレー部の友人に囲まれて一番後ろの方に座っていて、前の方に座るやる気に満ち溢れた人々とは無縁の生活を送っていたから気付かなかった。大学は広いし、人数も高校とは比較にならない。その中で関わる人間なんて限られてくるから、同じ講義を受けていても、同じ学部だったとしても、顔も名前も知らないやつがいることなんてザラだ。だから彼女があんな告白なんてしてこなければ、関わることもなかったし興味もなかった。

さん」

講義が終わって、講義室を出て行く学生と入れ替わりに入ってくる学生とが混じり、ガヤガヤと騒がしくなった頃。後ろの席から埋まっていく講義室の中で、筆記用具とノートと教科書を丁寧に片付ける彼女に、やっと覚えた名前で呼びかける。

「及川くん」
「この講義も被ってたんだね」
「ふふ、そりゃそうですよ。私たち学部一緒ですもん」
「えっ、そうなの?」
「人数多いですし、及川くんが私のことを知らなくても、無理ないですけどね」

少し自嘲的に笑う彼女に、モヤモヤしたものが胸を通り過ぎた。まるで住む世界が違うとでも言わんばかりな。別に及川自身は芸能人でもなんでもない、バレー部期待の選手というだけで、ただの学生だ。確かに彼女はあまり関わることのなかったタイプではあるけれど。なんと言えばいいのかわからないが、やんわりと壁を作られた気がした。

「でももう覚えたよ。さん」
「……はい」

女の子たちがいつも自分に求めるものはわかっている。優しい言葉と柔らかい笑顔。にこりと微笑んで名前を呼べば、彼女も少し頬を赤らめた。それは、どんな女の子だって変わらない。ほら、息をするのと同じくらい簡単だ。

「あ、これ。ノートありがとう。めちゃくちゃわかりやすかった」
「ほんとですか?よかったです」
「うん、これのおかげで俺テストいけそうだもん。お礼しなきゃね」
「えっ、いいですよそんな」
「そういうわけにもいかないでしょ。喉渇いてる?そこの自販機でもいいかな?」

あんな綺麗にとられたノートのお礼が自販機のジュースじゃ安すぎるだろうか。少し心配したけれど、彼女はそれさえとんでもないといった様子で慌てていて、それも新鮮だった。本来お礼を言うべきはノートを借りた及川の方であるはずなのだが、自販機のジュースくらいで恐縮されてしまった上に重ね重ね礼を言われて、思わず苦笑してしまう。彼女がおずおず告げた紅茶のペットボトルを渡し、自分の分のスポーツドリンクも購入する。

「ジュースくらいで、大げさだって。ノートのお礼なのに」
「……そんなこと、ないです」
「あとさ、さん同じ二年でしょ?敬語じゃなくていいって」

ノートに書いてあった学年は及川と同じものだった。敬語で話しかけてくるものだから最初は一年生なのかと思ったけれど、呼びかけられる名前は『及川くん』であったし、これだけ同じ講義を受けているのだから同じ学年というのも納得だ。彼女は二度三度、躊躇いがちに口をぱくぱくさせた後、真っ赤になった顔を隠すように手をかざして、眉を下げて俯いた。

「及川くんは、優しいね」
「やさしい?」
「うん、優しいよ。だからきっと、人に好かれるんだね」

優しい。それは、きっと自分に使うべき言葉ではない。及川はこみ上げてくる笑いを堪えた。かっこよくて気さくで優しい。過去に女の子たちが口にした言葉たち。そして近付けば近付くほど、思っていたのと違った、なんて言って彼女たちは去っていった。勝手に抱いた理想を押し付けて。彼女も結局、その女の子たちと同じなのだ。そんな押し付けられた理想を演じて、笑ってもない笑顔を貼り付けて、甘い言葉をつらつらと並べているのは、自分なのだけど。

「優しくなんて、ないよ」

いつもなら適当にありがとー、なんて笑って済ませる言葉に突っかかってしまう。これはただのノートのお礼で、そのついでの会話だ。適当に済ませればいいじゃないか。そう思うのに、言葉が勝手に滑り出た。たぶんきっと、どこかで彼女に違う答えを期待している自分がいるのだ。いつもとは毛色の違う女の子だから。

「……及川くんが、気付いてないだけだよ」
「そうかな?ノートのお礼にジュースくらい、誰だってするんじゃない?」
「違うよ、そうじゃなくて……。及川くん、告白された後で、チームの人たちにからかわれてたでしょう?私ほら……可愛く、ないから」

確かに、告白をされた後しばらくはからかわれた。あの子は可愛くなかったとか、前の彼女は可愛かったとか、でも胸はわりとあったとか、そんな下世話なからかいを受けて、毎回のことだから放っておいた。誰も彼も他人の恋愛には好き勝手なことを言う。及川って本性見せたら好きになる奴いねーよな、とか。そんなの、自分がいちばんわかっている。

「……ああ、あのとき。聞いてたの」
「うん。私もね、分不相応だって思ってたの。及川くんの彼女って皆綺麗な人だったから、笑われても仕方ないって……でも及川くんは、皆と一緒になって笑ったり、しなかったでしょう?」
「それは……そうだけど」

分不相応だとか、そんなことは思っていない。そもそも、自分が人に好かれるに値する人間だとは、及川には思えなかった。たとえばそう、岩泉なんかは、誠実で情に篤くて、ときには相手を思って叱責できる本当の優しさを持っている。だから、真っ直ぐに人に好かれることにも納得できる。だが、及川の方は打算だ。相手の求めるものを演じて好かれたって何にもならない。わかっていても、本当の自分を受け入れてもらえる気はしないから、演じることをやめられない。ないものねだりをする子供のようだ。好みじゃないからという理由でフった相手になんでもないような顔でノートを借りて、安いお返しで済まそうとする。そんな及川を優しいと評する彼女はどれだけ人がいいんだろうか。

「ね?ほら、及川くんは優しいんだよ」
「違うよ、それは、普通だって」

大体からかわれていたのは彼女の容姿の美醜ではなく、根本を言えば及川の薄っぺらい恋愛遍歴全般だ。どんな相手から告白されたり付き合ったりしてもチームメイトからのからかいは毎回飽きることなく繰り返されるので、それを放置するのはいつものことだった。偶然、彼女が今回それを聞いていただけのことで、いつも同じようなもの。心の中では自分も彼女を歴代彼女と比べて好みじゃないと切り捨てて、名前も覚えていなかったのだから、口に出さないだけで、彼らと同じだ。好みじゃないだけで、可愛くないとは思わないが。おどおどしているけれど姿勢は良くて、ロングの黒髪は相変わらず綺麗で、ただ服装と眼鏡がひどく彼女の印象を下げている。惜しいなぁ、と及川は腕を組んで彼女を眺める。たぶん、眼鏡をとって服装を変えたらそれなりに見れる容姿だろう。

「……それに、さんだって女の子なんだから、まるっきり可愛くないわけじゃないでしょ。ほら、眼鏡とったら、結構いいんじゃない?」

分厚い眼鏡をとると、やはり厚い分、外したら目が大きく見える。意外と睫毛が長い。肌はもう少し手入れが必要だろう。メイクをしていないことを考えれば、顔の造形は地味ながら整っている。ほら、可愛くないわけではないのだ。眼鏡をとって五秒ほど。その間に彼女の顔がどんどんと赤くなってきて、動揺したように目が泳ぐ。

「っ、お、及川くん、近……」

眼鏡を外してどれくらい見えているのかわからないけれど、彼女の言葉で顔の距離が近くなってしまっていることに気付いて及川はハッとした。眼鏡を返して、知り合いという関係にちょうどいい距離をとる。

「えっと、ごめん」
「ううん、私こそ……あの、紅茶ありがとう」
「うん」

紅茶のペットボトルを大事そうに両手で持って、彼女はぺこりと頭を下げた。去っていく後ろ姿が途中で翻る。

「あのね、やっぱり及川くんは、優しいと思うよ」

そう言って、はにかむように微笑んで、彼女は講義室の方へと走っていった。

「……だから、優しくなんか、ないって」

誰もいなくなった廊下でそう呟きながら、スポーツドリンクを煽る。この短時間でそれは少しぬるくなっていて、温かくなる胸の内を、夏の暑さのせいだと、及川は無理やりに結論づけた。





(2015/7/25)