夏の終わりに信じたものは




あの及川が。何回も、下手をすれば何百回も聞いた言葉を今日も聞き流しながら、及川は上機嫌で帰省の新幹線を予約する。オフシーズン。強化期間にあたるその時期は、普段ならもっと練習に充てたいとゴネて監督を困らせていたものだったが。与えられた連休に心を弾ませるのも初めての経験だ。地元の駅に帰り着く予定の時間を、すぐにメールで連絡する。そのメールアドレスにすら、及川は頬を緩ませた。どうやら帰省の日、地元では祭りをやっているらしい。返ってきたメールには『電車は混んでいると思うから気をつけて』と及川を気遣う内容と共に、待ってるねという言葉が続けられていた。それなら祭りに一緒に行こう。そう返すと、すぐに返信が来る。

行きたいです。

そのたった一言で、さらに顔が緩む。あの及川がな。またしても、程近い場所で吐き出された言葉に及川が顔を上げると、チームメイトである牛島が彼にしては珍しく、驚いたような表情で立っていた。

「なーに、ウシワカちゃん」
「いや、お前でもそんな顔をするんだな」
「そんな顔って?」
「……言葉にするのは難しい。そうだな、喩えるなら監督が奥方を見るときのような顔だ」
「奥方って……ウシワカちゃん、いつの時代に生きてんのさ」

言いながら、及川は僅かに動揺した。監督はチームのメンバーから見てもスタッフから見てもわかりやすいくらいの愛妻家だ。いつもメンバーに向けている厳しい表情とは反対に、愛する妻に向ける表情はひどく優しい。だからこそ普段とのギャップが激しくて面白いのだけれど。動揺したのは、そんな彼と同じような顔をしていると、人の心の機微に疎い牛島に指摘されたからではない。本当にそんな柄ではなくて嫌になるのだが、奥方という言葉に心が揺らいだ。メールの相手は、及川が長年片想いをしてようやく付き合い始めた恋人、というのはチームの中では既に有名な話ではあったが、実際付き合い始めたのはつい最近。結婚なんてまだ到底話題に上りそうにない。宮城と東京。住んでる場所も離れている。及川は日本を代表するバレー選手で、現役を引退するまで東京からは動けない。シーズンになれば日本各地、世界各地に飛び回ることになる。一方彼女は地元で定職に就いている。ついて来てほしい、なんて簡単に口には出来なかった。周りが次々と結婚していく中で、それを意識しないわけではない。お互いにいい歳ではあるし、結婚することになったって何の不思議もないのだが、プロポーズするとなると、それなりに準備が必要だろう。

「ねぇ、ウシワカちゃん」
「なんだ?」

急に真面目な表情になった及川に、牛島も背筋を正して向かい合う。そんなに真剣な顔をしなくてもいいんだけど、と思いながら及川は周囲を見渡して、牛島にだけ届くような小声で話しかける。

「たとえばさ、たとえばだけどね?恋人にプロポーズするとしたら、どんなふうにする?」

おそらくバレーに関する話だと考えていたのだろう牛島の、あの面食らったような顔は、しばらく忘れられない気がする。宮城へ向かう新幹線に乗り込みながら、及川はあのときのことを思い出す。特に期待もせず彼の言葉を待ったが、返されたのは予想通りの答えだった。

「そんなもの、結婚してほしいと言えば済む話だろう」
「だよね、ウシワカちゃんはそうだと思った」

ある意味非常に漢らしい回答だ。幼馴染の岩泉に聞いても同じような答えが返ってくるだろう。そういえば、花巻のプロポーズもムードもへったくれもなかったと、結婚式のときに言っていたような。けれど彼らと違って付き合うまでの過程も酷かったから、余計にいろいろと考えてしまう。せめてプロポーズくらいは雰囲気や演出も考えて、最高のものにしたい。もしかして、祭りの花火を見ながらプロポーズすればそれなりに良い雰囲気になるのかもしれないが、流石にこの帰省では難しいだろう。何せなかなか及川と彼女の予定が合わなくて、今度の帰省でようやく初めてのデートなのだ。試合の優勝インタビューでプロポーズもいいが、彼女が恐縮してしまいそうだから却下。彼女の存在があまり目立つのも望ましくない。だったら、来年の祭りにまた会う約束をして、初デートした場所で花火を見ながらプロポーズというのはどうだろう。及川が考えを巡らせている間に、新幹線はどんどん地元へと近付いていく。だが、物事はそう簡単には進まないらしい。前の駅を出発して間もなく、新幹線はスピードを落とし始める。まだ次の駅に着くには早い。何事かと、及川も周りの乗客も辺りを見回した。

『列車が緊急停止いたしまして、お客様には大変ご迷惑をおかけしております』

車内に流れるアナウンスを聞けば、車輌に何らかの不具合が発生したらしい。点検のためしばらく停車するということだった。少なくとも数十分は到着が遅れてしまいそうだ。元々祭りに間に合うギリギリの時間に着く予定にしていた。及川は慌てて彼女にメールを入れる。新幹線の不具合で少し遅れそうだから、駅に着いたら連絡する。返信はすぐに来た。

『了解。気をつけて帰ってきてね』

返ってきたメールは相変わらず簡素なものだ。自分のことは何にも言わない。及川のことだけを気にしている返信に、早く帰ってきて、とか少しくらい我儘を言ってくれてもいいのに、と唇を尖らせる。言われたって、及川にはどうしようもないのだけれど。チームメイトたちが意外だと口々に語る及川の長年の片想い。それは間違いないし訂正する気もないけれど、それより長い間、彼女は及川を想ってくれていたのだ。日本代表としてバレーを続けている自分の負担になりたくないという気遣いは充分にわかる。もっと会いたいとか、そんなことを言われたって叶えてやれないことの方が多いだろう。でも、ほんの少しくらい、彼女の我儘を聞きたい。
新幹線は、結局小一時間近く遅れてしまった。おかげで地元の駅までの接続も悪い。とりあえず新幹線が着いたと連絡を入れ、在来線のホームへと向かう。初デート予定なのに散々だ。もし時間通りにいっていればもう彼女と落ち合っていたはずなのに。早く会いたい。ほんの数か月前に帰ったときには、彼女とこんなふうに待ち合わせることなんて想像もしていなかった。久しぶりに会えると思うと、心臓が期待して大きく鳴り始める。そして、過去の彼女たちに少しの罪悪感を抱いてしまった。もし彼女たちがこんなふうに会えることを少しでも楽しみにしていたとしたら。おそらく気持ちの温度差をはっきりと感じていたに違いない。それで別れを切り出されてきたことにも納得できた。だから今度こそ、そうならないように、彼女をちゃんと大切にしたい。地元駅に近付くにつれて、浴衣姿の女の子が増えてきた。これから同じように祭りに向かうのだろう。逸る気持ちを抑えながら、電車を降りて改札を抜ける。色とりどりの浴衣や私服姿のグループが溢れる中、彼女の姿がなかなか見つけられない。

『着いたよ』

きょろきょろと辺りを見渡しながら、メールを送った。懐かしい、初期設定のままの着信音がすぐ近くで響く。及川がそちらを見遣るのと、彼女が携帯から顔を上げるのはほぼ同時だった。

さん?」
「及川くん」

浴衣姿を全く期待していなかったと言えば嘘になるが、着てくれる可能性は低いんじゃないかと思っていた。落ち着いた紺地に紫陽花が咲いている。長い黒髪は結い上げられ、いつも隠れている首筋が露わになって艶っぽい。メイクもなんだか、及川の知る彼女より色気があるように見えた。イメージになかった彼女の姿に、反応するのが一拍遅れてしまう。

「お帰りなさい」
「あ、ただいま。あの……浴衣、綺麗だね」
「ありがとう。新幹線、大変だったね。お疲れ様」
「うん。待たせてごめんね」

もっと何か気の利いたことを言えよ、俺。及川は心の中で頭を抱えた。会ったら何を話そうか、いろいろと考えていた話題は、彼女の浴衣の前に呆気なく吹っ飛んでいく。昔はもっとスラスラと、女の子を褒める言葉が口をついて出たのに。一番肝心なときには全くもって役に立たない自分の口が恨めしい。

「あ、の、お祭り、行こっか?」
「う、うん」

もうお互いにいい歳だ。及川の方は初めてのお付き合いという訳でもない。なのに、これではまるで中学生のデートみたいだ。サラッと手も繋ぐことができないなんて、かつての及川を知る人たちが見れば爆笑ものだろう。一定の距離感を保ちながら二人で歩いていくと、出店がある辺りから人通りが急に増える。唾を飲み込んでカラッカラの喉を少し潤すと、及川は彼女の方に向き直った。

「人多いから、手、繋いどこう」
「うん」

手を繋ぐのは初めてではないけれど。自分よりひと回り小さな手を握ると、急に付き合っている実感が湧いてきて照れ臭くなる。緊張する。ただでさえ蒸し暑い季節だ。繋いだ手がすぐに汗ばんでしまう。こんなことで心臓が馬鹿みたいに鼓動を早めているのを知られたくなくて、及川は彼女の気を逸らそうと屋台を見渡した。

さん、何か見たい店とかある?」
「私は……及川くん、お腹空いてるんじゃない?いろいろ買って、あそこに座って食べよう?」

ほら、また。自分のことより人のことだ。確かに時間が遅くなったこともあってお腹も空いているし、緊張と暑さで喉だってカラカラなのだけれど。まあ、彼女もお腹が空いているかもしれないし、と及川は無理矢理に自分を納得させ、二人で人混みを縫って焼きそばとたこ焼きと飲み物を買う。人混みを少し抜けたところにある石畳の階段に並んで腰掛け、戦利品を広げた。

「おいしいね」
「ん……うまい」

初デートで焼きそばとたこ焼きなんて、色気がないよな。買ってしまってから気付いたけれど、彼女はさして気に留めていないようだ。渇いた喉にお茶を流し込んで、青のりを抜いてもらった焼きそばを頬張る。これで青のりが前歯についてしまったら、更にかっこがつかない。彼女の方に視線を向けると、アツアツのたこ焼きを一生懸命頬張っている。暑さもあって首筋に流れる汗に目を奪われたところで、その首筋が少し赤くなっているのに気がつく。

「今日さ、もしかして、結構待った?」
「え?ううん、及川くんがメールくれたから、そんなに待ってないよ」

たぶん、嘘だ。もしかして、最初の約束の時間より前に駅に着いていたのだろうか。及川が到着するより前に日は沈んでいて、あの駅の待ち合わせ場所は夕方には影が多くなる。それよりも前。日が落ちてくるより先に、彼女はあそこに着いていたのかもしれない。あの場所で俯いて携帯の画面を眺めていたのかもしれない。だから、首筋が日焼けしてしまったのではないのだろうか。確証はない。彼女を問い質したところで、認めることはないだろう。そんなことないよ、とさっきの調子で否定するのが目に見えている。でも。もしかしたら、及川が思うよりもずっと、彼女も今日会うことを楽しみにしてくれていたのかもしれない。食べ終えた焼きそばとたこ焼きのパックを傍らに置いて、お茶の残りを一気に煽る。

「ねぇ、さん。俺さ、確かに普段離れてるし、シーズン中だとメールもまめに返せないかもしれないし、初デートの待ち合わせ時間にも遅れちゃったけど、でも、ちゃんとさんのこと大切にしたいって思ってるんだよ」
「お、及川くん、どうしたの?」
「ちょっとくらい我儘言ってほしいってこと。さんの我儘なら、俺は嬉しいの。ちゃんとわかってる?俺だってさんのことすきなんだから」

彼女の目も碌に見ることができないまま言い切っての方を伺うと、ぱた、ぱた、と小さな雫が彼女の手に落ちていくのが見えた。

「えっ、なんで泣くの!?」
「な、なんか嬉しくて……」

泣かせるつもりなんて微塵もなくて、むしろ喜んでくれるんじゃないかと思っていた及川はひどく慌てた。彼女の目元を拭うけれど涙は止まらない。けれど、これは悲しい涙ではないのだという彼女の声に少しだけ冷静になる。肩を抱き寄せると、彼女はさらに俯いてしまった。

「私ね、人生最大の我儘が叶っちゃったの。だからこれ以上我儘言えないよ」
「人生最大の我儘って?」
「……学生のとき、言ったでしょ?及川くんにすきになってもらえるように頑張るって。それでほんとに、及川くんは私をすきになってくれたでしょ?」
「でもそれはさんが頑張ってくれたからで……」

及川から見える彼女の首筋や耳元は真っ赤に染まっていて、こんなことでも彼女はもういっぱいいっぱいなのだとわかる。人を好きになるという感覚がわからないまま恋人ごっこをしていた及川と違って、彼女は付き合うということもこれが初めてで。そんなところが、及川自身もどうしたらいいのかわからないくらいに愛おしかった。人生最大の我儘なんて。一度フったくせに彼女の気持ちを自分に繋ぎ止めようとした、自分の方が余程我儘だと、及川は思うのだけれど。

「わかった。じゃあ俺が我儘言うから、さんは俺の我儘叶えてくれる?」
「え?うん、もちろんだよ」
「あのさ……言いにくいんだけど」

彼女が言えないというのなら、自分から動こう。これまで彼女を傷つけた分よりもたくさんの、すきだという気持ちが伝わるように。及川は一度大きく深呼吸をして、ずっといつ言おうかと考えていたことを口にした。

「そろそろ名前で呼び合いたい、です」

かなり小さくなってしまった声を聞き届けて、彼女はしばらくポカンとした様子で及川を見つめていた。そして、いきなり顔を伏せて肩を震わせる。それは泣いているのではなく、どう見ても笑いを堪えていた。こっちはタイミングを見失って、いつ言おうかずっと悩んでいたというのに。

「ねぇ、ちょっと笑うところ!?」
「ご、ごめ、だって及川くん真っ赤な顔でそんなこと言うなんて、想像してなくて……っ」
「あ、ほら、及川くんじゃなくて!」

笑ってくれたことに安心しつつ、不服な顔をしてみせると、彼女はまた頬を染めて目を泳がせた。

「徹、くん?」
「呼び捨てがいい」
「とおる……」
「うん……」

少し間があったけれど、彼女が呼んでくれた名前。実家では常に呼ばれてはいたけれど、そういえば恋人に名前で呼んでもらうのは初めてだと気付く。今まで全く意識していなかったから何とも思わなかったが、つまりは名前で呼び合うほどに過去の恋人たちと心が通わなかったのだ。本当に、何て薄っぺらい恋愛遍歴なのだろうか。これでは花巻たちに恋愛偏差値が低いなどと揶揄されても、文句は言えない。

「どうしたの?」
「いや、そういえば、家族とか幼馴染以外に名前で呼ばれるのって初めてだと思って……」
「え、そうなの?」

が初めて呼んでくれた名前。自分にとっては当たり前に側にあった『とおる』という三文字が、急に特別な響きを持った。彼女は頬を染めたまま、今までで一番の笑顔で及川を見つめている。

「うれしい……及川くんの、初めて」

なんか、エロい。彼女は全くそんなことを意識していなくて、むしろ純粋に喜んでくれていて。彼女にあげられる初めてがまだあって良かった、なんて思いながらも、そんなことが一瞬頭を掠めた自分を脳内で殴りつける。そして、ここが公共の場だということを忘れて思わず手を出したりしてしまわないように、及川は右手首を左手で押さえつけた。

「また及川くんになってる」
「あ、ごめん……徹」

「は、はい」
「……女の子の名前呼び捨てするのも、初めてかも」

こんなに長いこと想い合っていたのに、初めて呼び合う名前。たったこれだけのことが、こんなにも心を満たすなんて知らなかった。単純にすきだと伝え合うよりも、もっと。互いが特別だとわかる、他の人とは違う呼び方。彼女の今まで知らなかった笑顔を見ていたら、余計に愛おしさが溢れてくる。。これまでの距離を埋めるように名前を呼ぶと、彼女はひとつひとつ、律儀に返事を返してくれた。心臓の音は随分穏やかになったのに、彼女に恋をしていると気付いたあの日のように、訳もなく涙が出そうになる。胸があたたかくて、泣きたくなるほど。幸せが、あふれる。

「……結婚、して」

いつの間にか、及川の口からはそんな言葉が転がり出ていた。彼女が、また目を大きくする。及川自身も、自分の口から出た言葉に驚いた。いつかは伝えるつもりだったけれど、もっとちゃんと準備して、素敵な指輪を買って、お洒落なレストランで、なんて考えていたのに。指輪はない上に、ここは神社の石畳の階段で、食べたのは焼きそばとたこ焼きだ。ロマンも何もあったものではない。違う、そうじゃなくて。及川が言葉を重ねようとした瞬間、花火の大きな音が響いた。ここからでは花火自体はあまり見えない。ほんの少し、鮮やかな色の光が届くだけだ。暗がりの中で微かに鮮やかな色に染まった彼女の瞳は、大きく揺らいでいた。泣いている。

「……はい……」

彼女の涙に動けなくなってしまった及川の耳に、か細い声が届いた。聞き間違いかと思うほど、花火の大きな音が途切れ途切れに響いて、彼女の小さな声を掻き消そうとしているけれど。彼女は今、確かに頷いた。僅か数秒の鮮やかな光。それが照らし出す彼女の震える肩を、及川は何も考えられないまま抱き締めた。聞きたいことは山程あった。こんなプロポーズでいいのか、本当に結婚してくれるのか、後悔はしないのか。聞きたいことは、山程あったのに。何一つ、言葉にならない。

「絶対、幸せにするから」

喉の奥から、それだけをなんとか絞り出す。後悔はさせない。そうだ、後悔させなければいい。だってきっと、これ以上すきになれる人なんて二度と現れない。

「……私、も」

彼女の声が、耳元で鼓膜を揺らす。花火の音が遠くなる。

「私も徹のこと、幸せにしたい……」

背中に回った細い腕が、ひと回り小さな手が、及川を包む。あたたかくやわらかい熱を感じながら、この熱をずっと手放したくないと及川は思った。

「それなら、が一生、傍にいて」

腕の中で、彼女が何度も頷くのがわかる。これまでよりもより鮮やかに、より大きな音を立てて、夜空を彩る花が散る。その最後の花を見届けることもせず、二人は帰る人々で混み出す前に帰路に着いた。及川は、の手を硬く握り締めたままで。人の気持ちなんてすぐに変わるものだと言った、高校生の頃の自分に教えてやりたい。変わらない想いは、ここにある。夏の終わり。この胸にある彼女への想いだけは、いつまでも変わらないと、信じられる気がした。





(2017/7/20)