黒尾の弁解
同じクラスになったときから、は不思議な女だった。平均的な女の子に見えた。ただ、壁がない。遠慮がない。裏がない。それだけで、周囲の人間から比べれば充分特異な存在に見えた。クラスメイトの誰もが彼女のことを特別だと言った。特別信頼できる。相談できる。裏がないから、いろんな人の信頼を得た。彼女なら安心だと思われていた。それは凄いことだと、黒尾は思う。黒尾自身は何も考えていなくても、裏がありそう、と言われることが多かった。それだって、彼女は言わなかった。言うほど黒尾って、何も考えてないよね。それが彼女の言葉。そうやって、相手の裏も考えない。そういうところが皆に好かれていたが、それは特別であって特別ではない。彼女は誰かに異性として好意を抱かれることに関しては、とんと縁のない女だった。
「ちゃーん!」
彼、木兎光太郎が現れるまで、少なくとも黒尾はそんな話を聞いたことがなかった。音駒のバスが見えた瞬間に、木兎が体育館の方面からすっ飛んでくる。わかりやすい好意だ。木兎自身も、壁がなく遠慮がなく裏がない。似合いのカップルだと思う。少し遅れて、赤葦が木兎を追ってきた。おそらく、余計なことを言わせないように、という目線が送られてくる。黒尾はひとつ頷いて、に向かって駆けていく木兎の肩に手を回した。
「お、木兎、俺の歓迎はー?」
「おう、黒尾も待ってたぜ!早く試合してぇ!」
「俺も楽しみにしてたわ」
そのままバレーの話をして、体育館へ向かう。こうして本来の目的である、に話しかけるということは邪魔できた。にも関わらず、それに気付かないまま素直に誘導されてしまって、嫌な感情ひとつ見せないところは本当にいいやつだ。自分が裏表がある人間だからこそ、余計にそう思う。
「黒尾さん。ちょっといいですか」
木兎を梟谷のベンチに戻して音駒のところへ帰る途中、赤葦に用具室へと引っ張られた。眉間に深く縦皺を刻んで、まだ合宿が始まったばかりだというのに疲労感を滲ませている。いろいろな方向へ気を遣い、考えを巡らせているのが一目でわかる。この男は、苦労を抱え込む損な体質だ。
「なに、赤葦」
「……木兎さん、今回の合宿で告白するつもりなんです」
「おお、いいじゃん」
そうだろうとは思っていた。というか、木兎から聞いていた。告白をするつもりだと。赤葦と作戦を練ったのだと。黒尾には全て筒抜けである。そこまでこっちに言ってしまっても大丈夫なのか、と思うくらいには木兎の話は隠すとか濁すとかいうものがなくて。それくらい向こうも黒尾のことを信頼しているのだろう。人に裏があることを考えない。だからだろうか。その信頼には応えなければならない気にさせる。赤葦はチームのエースの調子を崩さないように、という目的があるので、黒尾とは行動の理由が違うのかもしれないが。冷静沈着、エースのテンションを保つ梟谷の司令塔の今一番の悩みが、他人の色恋沙汰というのもまた面白い。赤葦はひとつ溜息を吐くと、本題を切り出した。
「なので、ちょっとそれとなく、向こうに木兎さんのことどう思ってるのか聞いてもらえませんか?下手に告白して、調子崩されても困るので」
「赤葦ってほんと苦労背負い込むタイプだよなぁ」
「わかってますよ……」
木兎は見ていてすぐにわかるくらいのことが好きで、彼女だって別に木兎からの接触を嫌とは思っていないだろう。好意に気付いているかどうかは別として。そういえば誰かに好かれるという話は聞かなかったが、これまでが誰かを好きになるという話も聞いたことがなかったことに気付く。彼女は誰かを好きになったりしたことは、あったのだろうか。音駒のベンチの方へと戻ると、まだ集合時間まで随分あるからか、そこには準備をしているしかいなかった。
「ー。お前さ、木兎のことどう思ってんの」
遠回しに聞くのもめんどくさい。どうせ黒尾の言葉の意図になんて気付きはしないのだ。そう思って単刀直入に本題を切り出すと、は作業を止めて、きょとんとした顔で黒尾を見上げた。
「へ?木兎くん?……いい人だよね」
「なに、今の間」
少し間が空いて、伏せた瞳で返された答え。違和感のあるその返答に突っ込むと、彼女は黒尾の視線から逃れるように再び準備作業を開始する。
「別に何もないって。安心して」
「安心ってなに?」
「だから私は!別に黒尾の好きな人を取る気はないから!」
疑問符がいくつも黒尾の頭を通り過ぎていった。新幹線もびっくりの速度で通過したその疑問符を、黒尾は慌てて捕まえる。彼女の言葉はどういう意味だ。
「え、ちょっ、待っ、ちょっと待って何?え?」
「ごめん、気付いてたから。私ずっと皆の恋愛相談受けたりしてたし、そういうのわかってるつもり。だから……黒尾が木兎くん好きなのはわかってるから……」
恋愛相談を受けていたから。なるほど、それはたくさん受けていただろう。毎日と言っていいほど、その好きな相手と連絡を取り合っているやつらもその中にはいたのだろう。好きな相手の親しい人間に対して「あなたは彼のことどう思ってるの?」なんて牽制をかける場面にも出くわしたのかもしれない。加えて、こちらに来た瞬間に木兎の気を逸らすために黒尾が二人の再会を邪魔したのもいけなかった。確かに言われてみれば自分の行動はに嫉妬して、木兎を引き離しているように見える。だがしかし。この結論は超展開すぎるのではないか。気付け。普通に気付け。黒尾は頭を抱える気力もなく棒立ちで言葉を発する。
「……アー……木兎ネー……いいやつだもんねー……」
男にそういう対象として見られず18年。そうすると、こんなにも自分を恋愛の対象の外に置いてしまうのか。男同士で好き合っていることよりも、自分が好意の対象として見られていることが想像し難いのか。ここまでくると木兎の好意を明かさずにどう説明していいものやら、黒尾にもとんと見当がつかなかった。
「木兎くんもたぶんそういうの偏見ないと思うし……木兎くんに聞いたら、黒尾のことめっちゃいいやつだし好きって言ってたよ?私も偏見とかないし……」
途方に暮れている黒尾を置いて、はアドバイスを続ける。偏見がないのは知っているが、こんなところでそんな度量を発揮しなくてもよい。心の中で呆れたようにツッコミをかましながらも、やはり長年の付き合いか。黒尾は彼女の表情の変化に気付いた。
「ウン、ソウダネー……で、お前はなんでそんな顔してんの」
「え?」
「悲しそうな顔してる」
眉間に寄った皺、下がった眉。素直な表情とは裏腹に、言葉はどこまでも強がりだ。
「っ、黒尾と木兎くん、お似合いだと思うよ?」
バカか。お似合いであってたまるか。確かに木兎はいい男だ。裏表なくて優しくて、ちょっとバカだが頼りになる。だがそれは恋愛感情ではない。ただの友情だ。こんなゴツイ男と男がお似合いなんて、どっからどう見たらそんな意見が出てくるというのか。本当にバカだ。早急に視力検査をした方がいい。ついでにこんがらがっている脳内恋愛回路も正常に戻してもらえ、と思いながら、黒尾は驚きすぎて吐くことさえ忘れていた溜息をついた。
「あのね、勘違いだから」
「へ?」
「俺別に木兎のことそういう意味で好きじゃねーし。木兎もそうだって」
むしろ何がどうなったらそう見えるのか。いや、自分でもわかっている。疑われかねない要素は多々あった。だが、それよりも彼女だって散々アピールを受けているはずなのに。
「でも……木兎くん黒尾と一番連絡取ってるし気が合うって言ってたよ!?黒尾もしょっちゅう木兎くんに連絡してたし!」
「ソウネ、確かに」
歴代彼女の誰よりも連絡を密に取っていたのは確かだ。疑われかねない要素のひとつとして、そこは認めよう。お互いバレー馬鹿なものだから気が合ったし、連絡を取り合うのも楽しかった。だがそこに胸のときめきが存在したかといえば、否だ。断固として否定する。
「でも俺は木兎のことは普通に友達だと思ってるし、木兎もそう思ってる。で、お前は?」
「私、は……」
そう、大事なのはそこである。木兎の気持ちはわかりきっているのだから、あとは彼女の気持ち次第だ。だがそれも、ここまで来れば、わかる。
「木兎も意外とモテるぜ?行動すんなら、早くしねーと」
「別に、意外じゃないよ。モテるでしょ、かっこいいし……」
は赤くなった顔で俯いて、Tシャツの裾をギュッと握った。その顔を見れば、一発で理解できる。長年クラスメイトだった彼女が、初めて見せる女の顔だった。
「ふーん、へー、ほーお」
「その顔むっかつくなぁ!」
「いやぁ、も女らしい顔すんだなぁと思って」
「セクハラおやじか!もう!黒尾の恋路心配してたのに!」
「俺もいきなりそんな疑惑持ちかけられてお前の思考回路心配したわ」
そもそも自身の恋愛に縁遠かった彼女よりは多少恋愛経験がある。心配してるのはこっちだと言ってやりたかったが、その言葉はぐっと飲み込んで、背中を押した。
「ほら、行けよ。今第二体育館の用具室、木兎ひとりだから」
たぶんそこに今木兎はいないが、赤葦に連絡すればすぐに木兎を向かわせてくれるはずだ。ひとりで。躊躇いがちに走り出した背中に手を振って、黒尾は携帯を取り出した。
「黒尾さん」
「お、ツッキー」
体育館にひょいと顔を出したのは、黒尾と木兎が可愛がっている月島で。その顔にはニヤニヤした笑いが貼り付けられている。
「黒尾さんって木兎さん好きだったんですか、あの人面白すぎでしょう」
「……面白ぇだろ。まじ飽きねぇよ?」
一体どこから聞いていたのか。聞かれたところで別段困りはしないけれど、はたから聞いたらそりゃあ面白いだろう。黒尾も自分の話でなければ爆笑しているところだ。これだから、木兎も彼女も、一緒にいて面白い。月島は一通り笑って満足したのか、ニヤニヤ顔を引っ込めた。至極平静な顔で、黒尾に向き直る。
「黒尾さん、さんのこと好きだったんじゃないんですか?」
「んー、どうだろうな?」
その返答に不服そうな月島を横目に見ながら、黒尾は笑みを深めた。
「なーいしょ」
(2015/7/12)