大人になってしまう前に




自由登校になると、クラスメイトと会う機会はグッと減った。その分、と言うべきかはわからないが、彼女と会うことは増えた。花巻は地元の私大の入試が終わって、合格は貰っているが、彼女はまだ国立の入試が残っている。友人だった頃から何回か進路の話はしていて、進む道もお互いわかっていたはずなのに、こうして同じ制服で同じ校舎に通うことがもうないのかと思うと、心にぽっかり穴が空いたような心地になる。図書室や自習室で二人で教科書や参考書を広げ、黙々と問題を進める彼女を横目に、花巻は一枚も進まないノートに日付だけを書き込んだ。あと三日で彼女の入試が終わって、あと一週間ちょっとで、三年間通ったこの高校とも、お別れだ。
その日はどちらも落ち着かなかった。朝早くに電車を使って慣れない地に向かう彼女に、ついて行きたいと願い出て、花巻も同じく朝早い電車に乗る。握った手は一向に温かくならなくて、彼女の緊張がこちらにまで伝わってきそうだった。

「大丈夫」

何が、とは言わず、花巻はただそう口にした。ギュッと強く手を握る。大丈夫。あんなに勉強したのだから。大丈夫。ここでちゃんと、待っているから。大丈夫。大学が離れたって、二人は変わったりしないから。それは彼女を励ましているようでいて、花巻自身に言い聞かせるような言葉だった。彼女は花巻の言葉に、小さく頷く。そして、ようやく少しだけ微笑んだ。
大学の前につくと、花巻はその辺で待っているから、と近くのコーヒーショップを指す。頷いて、大学へと入って行こうとする彼女の腕を、花巻は掴んだ。

「どうしたの、貴大」
「や、いや…充分頑張ってるから、いらねーかな、と思ったんだけど。これ、持って行って」
「……お守り」
「うん。頑張れ」
「ありがとう、頑張る」

大きな門をくぐって、彼女は一人その中へと進んでいく。大勢の頭良い進学校の制服や、他県からなのか見かけない制服も多数門の中へと吸い込まれていく。大学の中へは一般の人でも入れるとは聞いたけれど、それでもなんだか気が引けて、花巻は外のコーヒーショップへと入った。外との温度差で、一瞬くらりとするくらいには暖かい。キャラメルマキアートを片手に、混んでいる店内の窓際の席へと陣取る。受験生の親らしき姿もちらほら。大学の門をじっと見つめながら、花巻は自分の中で湧き上がる気持ちにそっと蓋をした。
彼女は花巻と同じ私立を滑り止めで受けている。この大学に落ちたら、同じところに通うことができる。彼女はこの受験のために頑張っているのに、こんなことを思うのは情けない上に申し訳ないとは思うのだが、一度浮かんだ考えはなかなか花巻の中から離れてくれなかった。まだ付き合い始めて半年も経っていない。そんなときに、まだ近いとはいえ生活環境が大きく違ってしまうのは不安だ。たとえ通う学校が違っても心配いらないから頑張れ、なんて心から応援できるほど、花巻は大人にはなりきれなかった。そんな自分も嫌で、初詣に行った近くの神社へと走り、お守りを買ってお賽銭を放り込んで、祈った。彼女の努力が報われますように、行きたい大学に受かりますように、と。そのお守りも、こんな直前まで渡すのを躊躇うほど、やはり離れたくなかったわけなのだけれど。ほとんど手をつけないまま冷めていったキャラメルマキアートを喉に流し込んで、うとうとしてしまっていると、ポンと肩を叩かれた。

「や、マッキー」
「及川。なんで……って、そういやお前もこの大学か……」

及川が一足先にこの大学に推薦を決めたことは知っていた。元々岩泉が好きだった彼女は及川には全く興味がなかったし、志望していた学部も違ったので、何も心配はしていないのだが。及川は相変わらずヘラヘラとした読めない笑みを浮かべている。

「そそ。今日は大学使えなくて近くの体育館で練習だったから、参加してきたの。その帰り。マッキーは、彼女待ち?」
「そうだけど」
「ふーん。……ねぇ、大学違うのって、不安じゃないの?」

核心を突かれた。不安に決まってる。生活環境が変わって、関わる友人関係が変わって、飲み会なんかもあって、その中で彼女との関係だけが変わらないなんて、どうして断言できるだろう。全然、大丈夫なんかじゃない。

「不安だよ。でも、信頼するしかねーだろ。一応、あいつがこれから先、俺以外を好きになることは心配してねんだよ」

心配なのは、誰か他の男にちょっかいをかけられやしないか、というただその一点だけ。それだけでも花巻には充分な心配材料だった。

「……そうなんだ。一途だもんね、彼女もマッキーも」
「っそうだよ、悪ィか」
「全然。羨ましいなぁって思っただけ。あ、受験、終わったんじゃない?」

及川の言葉に窓の外を見やると、確かに受験生が出てき始めている。LINEの通知音がして、携帯を取り出す。そこには、終わったよ、と一言メッセージが届いていた。

「じゃあ、俺も帰るよ。彼女さんによろしくねー」
「……おう」

結局何をしに来たんだ、と思わないでもなかったが、それよりは彼女の方が気がかりだ。門の前で待っていると、見慣れたマフラーとコートが近づいてくる。

「お店の中で待っててくれてよかったのに」
「さっき出てきたとこだから。何か、甘いもんでも食べに行こうぜ」
「……うん、そうだね」

彼女の手をとって歩き出す。その手は朝よりも、温かかった。

「貴大」
「ん?」
「たぶん、できたと思う。お守り、ありがとう」
「うん。よかったな」
「うん。ごめんね、同じ大学選べなくて」
「気にすんな。大丈夫だから」

何が、とは言えなかった。漠然とした未来への不安に対して、ただ大丈夫だと言い聞かせる。まだ見えない大学生活。その不安を上手く払拭するような言葉も方法も、何も知らない。ただ、繋いだ手が離れないように握りしめることしかできなかった。


*****


形式ばかりで長ったらしい校長の話。どこか緊張感と、寂寥感が漂う体育館。仰々しい式典の末に貰った、たった一枚の紙で、この学校から卒業することを認められる。部活で集まって後輩から花束を受け取って、部活のメンバーで少し過去を振り返って泣きそうになった。元々、涙腺は強い方ではない。岩泉や松川、及川の目にも薄っすらと涙が滲んでいて、引退したときにも思ったけれど、この体育館をこのメンバーで使うことはもうないのだと、改めて実感する。バレーに対しては皆真摯で、真剣で、その熱にいつも背中を押された。このメンバーでバレーができて、良かったと思う。部活のメンバーと別れて、体育館裏へと向かうと、彼女も感慨深いような顔をしてそこに立っていた。三年前、岩泉を見ていた彼女に興味本位で声をかけた頃を思い出す。



あの頃には、想像もしなかった。彼女を好きになることも、こんなふうに名前を呼ぶようになることも、こうして、同じ制服を着て一緒に帰ることが、もうできなくなることも。

「……卒業した実感、わかねー」
「うん、私もそうだよ」

お互い自然と手を繋ぐ。絡んだ指が、今日はいつもよりも強く花巻の手を握り返した。別れるわけじゃない。遠く離れるわけでもない。二人の距離は、三年前よりずっと近い。それでも、同じ制服を着て、同じクラスで授業を受けて、一緒に帰る。この高校生という時間は、とくべつだった。

「もうちょっと、ここにいたい」
「……うん」

ずっと変わらないものなんてない。このままここに留まれないことはわかってる。それでももう少し、という花巻に、彼女は優しく微笑んだ。手を繋ぐ、この二人の距離だけは、ずっと変わらないままでいたい。校舎が静かになった頃、三年間の思い出を胸に、二人はようやく一歩を踏み出した。





(2015/6/27)