そして、重なる、二つの影




バレンタインが近付いていた。男子も女子も、その日が近付くにつれ、そわそわと浮ついて落ち着かない。好きな相手に他に好きなやつがいた花巻は高校に入ってからこの行事に憂鬱になりこそすれ、浮つくことはなかったのだが。

「貴大ー、これありがとー」
「ん、ああ、おお」
「どしたの、慌てて」
「な、なんでもねー」

貸していたCDを返しに来たのは、三年間同じクラスでようやく付き合うことができた好きな相手。この時期に落ち着いていろというのが無理な話だ。どうしたって期待してしまう。二年間、彼女は渡しもできないチョコレートを毎年用意していた。そのたび花巻は渡すようにすすめたし、彼女の想い人である岩泉も呼び出してやると伝えたのだが、彼女は結局一回もそれを渡すことはなかった。毎年流れたチョコレートは、花巻の手に渡っていて。付き合ってもないのに手作りなんて重いからと、慎重に岩泉の好みで選んだらしいチョコレートは、花巻には少し苦かった。

『……渡せばよかったのに』
『うん……でもいいの。フラれるの、怖いし。花巻にもいつもお世話になってるからさ。お礼』

臆病者同士、お互い相手に想いを伝えるなんて、とてもできなかった。そう考えると、自分と彼女は似ているのかもしれない。花巻はホワイトデーに、毎年気持ちを悟られない程度の、それでも可愛らしいお返しを選んで買った。毎年、カップルで溢れる百貨店のお菓子売り場で、険しい顔をして贈り物を選んで。それまでお返しのお菓子に意味があるなんて全く知らなかったのだが、調べているうちにマシュマロは『嫌い』という意味だと知って、さらにクッキーは『友達のままでいよう』という意味だとわかった。別に付き合えるようになるなんて期待していなかったが、クッキーだけは買わないでおこうと、固く心に決めたことを思い出す。

「あ、貴大、14日なんだけど」
「え、うん」
「……ちゃんと貴大に用意するから、そんなビクビクしないで」
「あ、はい」

想ってきた年数なんてものは飛び越えて、彼女ももうかなり花巻に惚れている。お互いの鞄で揺れるシュークリームのキーホルダーを見るたびに誕生日の出来事を思い出してにやけてしまいそうになる。お互いの気持ちがわかっていても、彼氏彼女になって初めて迎える行事に浮ついてしまう花巻を、彼女は面白そうに笑った。

「でも、期待はしないでね」
「え、無理だろ」
「ハードル上げないでよ、私お菓子の手作りとかしたことないんだから」
「え!?手作りしてくれんの!?」
「しー!!ばか!!声がうるさい!!」

そうか、付き合ってもないのに手作りは重いということは、付き合ったら手作りもしてくれるのか。思わず声が大きくなった花巻に、クラスからヒュウと歓声と二人をからかう声が上がる。彼女は持っていたノートで花巻の頭を叩くと、真っ赤になって自分の席に戻っていった。誕生日に彼女が作ってくれたお弁当はかなり美味しかった。期待してしまうのは仕方ないことだろう。鞄についたキーホルダーをいじりながら、花巻は堪えきれずに笑った。



*****



バレンタインデー当日。は顔色が悪かった。初めて彼氏というものにバレンタインの贈り物をする。いや、正確に言えばこれまで何度も彼には本命に渡せなかったチョコレートを流してきたのだけど。向こうが自分に好意を向けてくれていることはそのとき知らなかったとはいえ、かなり不躾だったかもしれない、と今になって思う。だから、彼氏になって初めてのバレンタインには、一応、彼女なりに気合を入れようと思っていたのだ。だが。お菓子作りがこんなにめんどくさいものだとは正直思わなかった。

「なんでちょっと分量違ったくらいでこんなになるの……?」

料理は多少できる。だから、お菓子作りもそんなにひどいことにはならないだろうと踏んでいたのだが、彼の好物であるシュークリームはお菓子の中でもかなり難易度が高かった。シューは膨らまないし、カスタードは固くなる。練習してもなかなか上手くならなくて、昨日も二回作り直したが百円のコンビニのシュークリームほどにも美味しくならなかった。こんなのを渡すわけにはいかない。事前に失敗したとき用に百貨店で買っておいた、いかにも本命です、というチョコレートの準備はある。けれど彼のここ数日の浮かれようを思い出すと胸が痛んだ。絶対に手作りを期待している。

「でもこんなの……」

膨らまないシューを無理やり切り分け、中に固いカスタードを挟んだ、シュークリームというよりはサンドイッチやアイスサンドに近いそれ。それを見て、は頭を抱えた。無理だ、こんなのを渡せるわけがない。手作りする、なんて事前に言わなければよかった。それでも言ってしまったものは仕方がない。ちゃんと作ってはいたんだという言い訳だけはさせてもらおうと、不格好なシュークリームを一個だけ包んで、保冷バックに入れた。

、おはよ」
「おはよう、貴大」
「お前、ちょっと顔色悪くね?」
「えーやだ、ほんとに?」
「まじだって。大丈夫?」
「うん、大丈夫。あ、の、チョコなんだけど」
「あ、うん」
「ほ、放課後、公園でいいかな……」
「おう!」

大体同じ時間に登校するから、いつも校門で一緒になって、教室までは自然と並んで歩く。今日ばかりはこの時間も胃が痛くなる思いだ。彼はひどく楽しそうな顔をしている。二人で靴箱を開けて、花巻は一瞬固まった。ああ、たぶんチョコレートが入っていたんだな。それを察することができるくらいには、友達として接してきた期間が長かった。

「今年はいくつ貰うんだろうね」

去年までは、そんなにたくさん貰うなら、その中の誰かと付き合えばいいのに、と思っていた。きっと可愛い子だっているのに、もったいない、なんてことも言った気がする。そのとき彼はなんと言ったか、もう覚えていないけれど、寂しそうに笑ったことだけは覚えている。今ならその理由がわかる。自分はなんて酷なことを言っていたのだろうか。そして、彼が自分の言う通りにしなくてよかったと、は心から思った。去年の反省をして一人押し黙っていたら、花巻は何を思ったのか、神妙な表情で俯いたの顔を覗き込んだ。

「今年は一個しか貰わないって決めてっから。これ名前書いてあるから、休み時間に返してくる」

一個。その一個が、自分のチョコレートを指しているのだと気付いて、慌てた。自分のもの以外貰わないで、なんてワガママを言うつもりはない。確かに、それを受け取ることに対して、いい気分ではないけれど。

「私はいいから、貰うくらいしてあげなよ」
「いいよ。彼女がヤキモチ妬いちゃうからな」
「や、やかない」
「えーほんとにー?」
「もう、しらないっ」

大人ぶって、物分りがいいふりをしたって、花巻が他の女の子からの贈り物を貰うのが嫌なことに変わりはない。嫌、とは違うかもしれない。でもこのモヤモヤを、的確に表す言葉がわからなかった。やはりヤキモチなのだろうか。自分がこんなに心が狭い人間だなんて思わなかった。花巻が持っているそれだって、彼のことを好きな女の子が、一生懸命選んだものには違いないのに。結局花巻はその日一日、誰からのチョコレートも受け取らなかった。なんだか余計に自分のチョコレートへのプレッシャーが上がった気がして、は授業中にこっそりとカバンの中の保冷バックとチョコレートを覗いて、溜息を吐いた。

、帰ろ」
「うん」
「……お前ほんと顔色悪いけど大丈夫か?」
「大丈夫、帰ろ」

授業が終わって、ウキウキした彼が隣に立つだけでいたたまれない。公園までの道のりが、いつもより短い気がする。もっと長くても構わないのに、処刑が早まった気分だ。ベンチに座って、佇まいを正して。は心の中で、断頭台に首を突っ込んだ。

「あの、チョコレート、なんだけど」
「うん」
「ほんとはシュークリーム、作ったんだ。けど、失敗しちゃって。だから、これ貰って」

誰でも知っているチョコレートメーカーのバレンタイン仕様で可愛らしくなっている箱を差し出す。それだって、充分に悩んで選んで買ったものだ。甘いものが好きな彼の好みに合わせた、ミルクチョコレート。だが彼の手は、もうひとつの保冷バッグを指差した。

「……それ、シュークリームじゃないの?」
「そ、そうだけど、失敗したんだって」
「これも貰うけど、そっちも貰っちゃダメ?」
「美味しく、ないよ?」
「それは食べてから決める」

保冷バッグの中にあったシュークリームは最後に見たままの形でそこにあった。いっそ潰れたりしていれば、形が不恰好な言い訳もできたかもしれないのに。花巻はそのシュークリームと言い難い物体を手に取ると、ニカッと笑う。

「これあれだな、これに似てんな」

指が示したのは、お揃いのキーホルダー。確かに半分に割ったシューにクリームを挟んだスタイルは似ているけれど、そもそもそんな綺麗にシューは膨らんでいない。でも、彼が嬉しそうに笑ってくれるから、重かった気持ちが少しずつ解されていく。

「いただきまーす」

大きくかぶりついた花巻に、は慌てて言葉を重ねる。

「美味しくないでしょ。ごめんね」
「プリンシューみたいで、これはこれで美味いよ?」
「……まあシュークリームではないよね」
「そんな気にするほどじゃねーって、な?それに俺の好きなもん作ろうとしてくれるのが嬉しいんじゃん」

そう言って不恰好なシュークリームを全てたいらげながら頭を撫でてくれる花巻は、優しすぎると思うのだ。バレンタインに毎年岩泉にあげられなかったチョコレートを渡して、他の女の子からの気持ちに応えないのを勿体無い、なんて言って。いっそ好きじゃなくなったっておかしくなかったのに、こんな自分にまだこんなに優しくしてくれる。好きだと伝えてくれる。だからこそ、ちゃんと貰った気持ちを返したいと思う。

「来年は、もっと上手くなるから」
「……うん、楽しみにしてるわ」

この優しい人と、ずっと一緒にいられたらいいと思う。手を繋いで、残り少しの帰り道を歩く。

「いつかの得意なお菓子がシュークリームになんのかな」
「ふふ、パティシエでも目指そっか?」
「いやダメ、食べていいの、俺だけ」

来年、いつか、その先。当たり前のように一緒にいる未来を話していることが、なんだかくすぐったかった。しっかりと繋いだ手が、花巻の方に引き寄せられる。公園の片隅、隠れるように触れた唇は、甘いカスタードの味がした。





(2015/6/23)